生命倫理に関わるみなさんからの質問に研究者が回答し、議論を共有することを目的としています。
みなさんからのご質問お待ちしています。
【これまでの質問】
失礼します。
私は法学を主に勉強しています。
さて、最高裁判例(最判平成19年3月8日民集61巻2号518頁。http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=34239) では、近親婚を禁止する民法734条1項について「社会倫理的配慮及び優生学的配慮という公益的要請」を理由としています。
しかし、優生学的配慮で婚姻禁止にするのが許されるなら、高確率で遺伝する障がいや難病を持つ人にすら婚姻を禁止できることになりかねないと思っています。(そちらも禁止しろと考えるなら整合性の問題はないかもしれませんが、私は支持しません。)
また、子を持つつもりがないカップルからも一律に婚姻の機会を差別的に奪う点もあります。
同性婚の法制化が議論されますし、(法律婚制度廃止しない前提なら)同性婚は認めてよいと感じますが、近親婚、中でも特にきょうだい婚は認められてよいと考えています。
「優生学的配慮」などを理由に近親婚を国家が禁止することは、(特に旧優生保護法が問題視される昨今、)整合性を保った形で合理的な説明が可能なのでしょうか。
この点、法の下の平等を保障した日本国憲法があるのに、なぜか管見の限りでは法学の世界でも近親婚規制の差別性の議論があまりされていないように感じています。
ゲノム編集技術を用いて操作した受精卵から赤ちゃんが誕生したとのニュースがありました。2点、先生方のご意見をお聞かせいただけませんでようか。
1.生まれた赤ちゃんは、この後、通常の権利を持って生活することはできるのでしょうか。例えば、子孫を残すことはできるのでしょうか?
2.今回のニュース報道から、遺伝性の疾患を遺伝させずに子を授かる技術が実用化されている国がある、としてメッセージを受け取る人がいるように思いますが、その観点から、どのような議論がなされているのでしょうか。
一般的なところのみならず、先生方の個人的な見解もお聞かせいただけましたら幸いです。
最近培養肉というものが開発されていますがそれについて動物倫理学の理論的にどうなんですか?
シンガー流の考え方ならまず認められそうですがレーガン的な考え方の場合はどうなんでしょうか?
あと前の質問は理論的なものですが培養肉に対して動物倫理学界では培養肉に対してどのような評価なのでしょうか?
動物愛護団体などの見方などはよく見るのですが動物倫理学者もそれと同じなのかどうなのかは気になるところです。
培養肉自体まだ実用化しておらず発展途上の分野であるのでどれくらい倫理学者から注目されてるかわかりませんが回答お願いします。
一般的にピーターシンガーの「自己意識や快楽・苦痛の感覚が将来も見込めない重度の障害新生児に対する積極的安楽死は道徳的にも擁護されうる」という主張やトム・リーガンの権利論などはそういったものに疎い層からは過激な考え方とされますが実際の動物倫理学会での間ではどのように見られているのでしょうか?
あるところで聞いたものによるとヴァーナーなどが言うに多くの動物倫理学の権利論者はリーガンなどを除けば動物を犠牲にする制度の完全な撤廃を求める人は多くないとも聞きましたが実際どうなんでしょうか?
近年、ベランダでの喫煙などにも厳しい目が向けられていますが、どのような条件が満たされれば、喫煙を正当化できるのでしょうか?
生命倫理を勉強しています。
一つ引っかかることがあります。
生命倫理のさまざまな議論は、どこまで意義があるのかということです。
たとえば生命倫理の議論には、生まれてくる子供をできるだけ望ましい形質にするよう出生前の段階で介入すべきだ、等の過激なもの
があると思います。そういった過激なな議論を反駁しようとする議論もたくさんあると思います。 このような論戦は、時間はかかるかもしれないですがいつか決着がつくのかもしれません。議論の応酬を追い、自分も考えてみるというのはとてもエキサイティングだと私は思います。
しかし私は、こうした論戦に決着がつくことに果たして現実的に意義があるのかどうか疑問に感じてしまいます。というのも、さまざまな議論がある中でどの議論が正しいとされ、政策等に採用されるかや、もっと言えばどのような議論が「反駁すべきすもの」とみなされるのかは、実際には単に人々のムードで決まっているように感じられるのです。
もちろん、哲学者たちは議論の営みを決して気分のままにやっているのではなく、純粋に議論に穴があるから互いにそれを指摘し、代案を提出しつづけているのだと思います。
しかし人々が実際の生活で実践の根拠に採用する議論は、たんにその時のムードに都合のいいものに限られるように思えてしまうのです。例えば、冒頭で挙げた過激な議論などは、現時点ではいくらそれを支持する論証を積み上げたところで、人々の実践においては黙殺されてしまうというのが現実ではないでしょうか。
また実践の根拠としてそれに反対する議論を援用するとしても、「この過激な議論はダメだということにしておいたほうが居心地がいいからこの反論を採用しよう」という動機でそうしているのではないか、と思えてしまいます。 逆に人々のムードが変わって、現在の感覚では過激な議論が好まれるようになれば今度は、議論に穴があるにもかかわらず過激な議論を正しいものとして実践の根拠に採用しようとする、ということも考えられます。そうしたムードの中では、人々はその議論に対する反論を軽視するようになるのではないかと思います。
もし現実がそのようなものであるなら、純粋に論理的に妥当な議論を見つけようとする試みには、いったいどこまで意義があるのでしょうか。人々はだれもそのようなものを求めていないのかもしれないのではないですか。
結局生命倫理の議論の意義は、その時のムードに都合のいい議論を提供することにすぎず、様々な議論はつまみ食い的に利用され古くなれば捨てられるのがオチ、ということになってしまわないでしょうか。人々のムードを作り出すのは洗練された議論であり、そのような議論を見つけるのが生命倫理の議論の意義である、とも考えられるかもしれません。
しかし、ムードというのは理性的な議論によるよりも、人々の生活のなかでの感覚が醸成されてできていく部分が大きいものであるように思われるので、ムードづくりにおいて議論がどれだけの意義を持つかは疑問に感じられます。人々の感覚を言語化する意義がある、と
いうことになるんでしょうか。
混乱した文章になってしまったかもしれませんが、ご意見いただければ幸いです。
最近になって哲学に興味を持ちました、京都大学の文学部の2回生のものです。
よく電車の中で化粧をするのはよくないとか、人前で鼻をほじってはいけないだとか「人前で許されない行為」ということがいくつかあって気になってます。私個人としては化粧は特に気になりませんが、鼻をほじられるのは少しいやな気がしています。
さて、ではなぜ「人前で裸になるのはいけない」のでしょうか。一応これは上半身だけを考えています。私自身は別に女性の裸を見ていやな気はしませんし、女性だって男性アイドルの上半身を見ることだったらいやな気はしないでしょう。
以前読んだ本で、人前で裸になることがいけないのは性的羞恥心を見られる人見る人の間に喚起するからであると書いてありました。私は最初は納得しましたが、あとあと疑問を感じ始めたため、今回質問させてもらいました。
ちなみに、暴力事件に巻き込まれるなどリスクはあり得ますが、今回は、人前で裸になることのある種の道徳的な不快感とか非難の可能性を念頭に置いています。
さて、その本では、性的羞恥心は、肌を隠そうとしているのに、露見した時に最も喚起されるとありました。いわゆるチラリズムというやつですかね。
ということはみんなが裸になってしまう社会では、人前である一人が裸になったところで、隠すものという発想がないので、性的羞恥心は喚起されないということになると思いますがいかがでしょうか。
私がもやもやを感じるのはもしこの例で性的羞恥心が喚起されないならば、今の社会で裸になることがお互いの内に性的羞恥心を喚起し、それゆえに人前で裸になることが悪いことであるのだとしたら、たまたまそのような社会にいるということで、善し悪しが決まってしまっているような気がして、すごく違和感を感じます。
それとも、裸になるのがいけないのはそもそも別の理由によるのでしょうか。それとも人前で裸になるのは法律で禁じられているだけで、そもそもいけないことでもなんでもないのしょうか。
患者の最善の利益 best interestsを考えるとき、これは幸福と考えてよいと思います。
この幸福ですが、中島義道は『不幸論』で、「幸福とは、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している」と言っています。
つまり、ある程度不誠実な生き方でないと幸福にはなれないということですね。
この場合、多くは公正原則との対立になろうかと思います。ポール・ファーマーが『権力の病理』で指摘する点ですし、ピーター・シンガーも公正原則は重視しているように思います。
ここまで考えた場合、best interestsとは何なのかよく分からなくなってきます。
他者が、患者の「最善の利益」を考える時、「患者が不誠実に生きたい」と仮定して結論を出すのが善いことなのか???う~ん、よくわかりません。
それとも現実的に、生命倫理は最善の利益を検討する際の考慮する範囲を限定している(善くないことだと思っているが、現実的に限定せざるを得ない)のでしょうか。
幸福が自己の主観である限り、結論の出ない(出にくい)話なのかも知れませんが、生命倫理では、幸福という概念をどのように捉えているのかご教授いただければ幸いです。
ご回答、ありがとうございます。
最善の利益の考え方については、よくわかりました。実際の臨床では、先生のご回答のように考えていると思われますし、質問内容のような考えを持ち込んではいないと思います。
ここで一般論になるとは思いますが、公正原則と自律原則の対立を考えてみたいと思います。
例えばフランスは、自己決定よりも社会秩序の維持を優先して判断することがありうるというスタンスです。つまり、生命倫理に関して米国式の個人主義・自由主義を採らないと宣言しているらしいです。社会の、あるいは種としての人の最善の利益を優先することで、いわゆる患者の最善の利益が損なわれることもあるわけです(橳島次郎『生命科学の欲望と倫理』)。
そこに中島義道の誠実に生きることこそが大事なのだという考えを取り入れれば、「社会の、あるいは種としての“人の最善の利益”に貢献すること」=「本人の利益」となり整合性が保たれるという見方もできそうです。まるで宗教とか、あるいは全体主義的な雰囲気が出るのが問題ではありますが。
患者や家族との対話の中で、医療者が公正原則に対する配慮をどのように示していくのがよいのでしょうか。それとも、最善の利益を考える際、他者が公正原則を考慮する必要は無いのでしょうか。
それともこれは純粋な医学的判断を超えたところにあるので、なんらかの法的規制ができなければ難しい領域だと考えるべきなのでしょうか。
ややこしい質問で恐縮なのですが、よろしくお願いします。
興味深い質疑ですので横から失礼します。
質問者様は、「『患者が不誠実に生きたい』と仮定して結論を出すのが善いことなのか」という疑問に対して、回答者様は、3タイプの検討を行い調整していくことが回答されています。
私としまして、もう少し伺いたいのは、3つ目の「人間の持つ客観的な利益」については、生命倫理のお立場では、より具体的に、どのような枠組みで考えているのか、ということをご回答頂きたいです。
(1)「客観的」の客観度合い
①個々の医師の主観的であるのか。
②生命倫理学界としての価値基準を持って照合しているのか。
ですね。
(2)上記②の場合の基準の考え方
①ケース別で個別に定められた価値基準なのか。
②生命倫理学界として人間の摂理に基づく仮説的な価値体系を検討しており、それに照合しているのか。
ですね。
①である場合には、個別最適視点では患者にとって利益があっても、より上位概念での1患者における全体最適視点での利益に実は反している、ということがあるような気がするわけです。
質問者様の文中にも、「『患者が不誠実に生きたい』と仮定して結論を出すのが善いことなのか」という文面を拝見しまして、上記(1)の②があるならそれと比較したいと思いました。
私の学ぶ限りでは生命倫理ではQOLなのかなと思いますが、何の為にQOLを高めるのかというさらに上の階層も必要な気もしております。私なりの仮説もございますが、字数制限がございますのでこれぐらいにて失礼いたします。
ジョン・ハリスは、死体から強制的に臓器を抽出し、臓器移植が必要な人々に提供するべきである、と主張していますが、これについてどのような批判があるのでしょうか?
権利(自己所有権とか生命権など)の帰属主体は死亡しており権利行使はできませんし、意識も感覚もないので選好を持つことも快苦を感
じることもありませんし、どのような批判が可能なのでしょうか。
超自然的な何かに訴えたり、遺族の権利及び選好や死亡者の生前の権利行使及び選好を考慮すべき、といった批判になるのですかね(見当違いだったらすみません…)。
イヴァン・イリッチは『脱病院化社会』で、病苦の持つ「負の価値」に触れています。科学技術、とくに生命科学・医学は、病苦を取り去るべく努力を重ねてきましたが、生命科学・医学が目指している社会は、本当に人類が理想とする社会なんでしょうか。
痛みや苦しみのない社会では、哲学や宗教は生まれなさそうだし、イリッチは、そのような“麻酔された社会”では、人々は次第に強い刺激を求めるようになり、生きているという感覚を得るために、“薬物、暴力、恐怖”を求めるようになると言います。
同じようなことをルネ・デュボスも『健康という幻想』で言っていますね。
イヴァン・イリッチのいう「負の価値」という考えを単純に正当化していいものかどうか分かりませんが、生命倫理ではどう扱っていけばいいのでしょうか。
ご回答、ありがとうございます。
少しお尋ねしたいのですが、「生命科学の目的と、医学の目的は区別したほうがいい」とのご指摘ですが、どのような違いがあるのでしょうか。生命科学の方は純粋に科学であって、医学の方は実学に近いといったような違いのことでしょうか?
また苦痛の種類の区別をいろいろとご指摘いただきましたが、私が質問で挙げました「負の価値」というのは、森岡正博が『無痛文明論』で述べているものとも同じだと思います。
結局は、森岡正博もイヴァン・イリッチと同じことを指摘しているのだと思いますが、さまざまな技術によるさまざまな苦痛の除去、これはある意味で欲望の充足ですね。そのような技術の出現で「負の価値」を失うことの社会の損失に加えて、そのような新たな技術の出現は、結局は新たな問題を引き起こすという指摘もあります。
このような考え方を踏まえると、それは「社会をよくする方向に向かっている」とはいえないという結論も出せるのではないかと思うのですが、如何でしょう。
そういうことを総合的に判断した場合、生命倫理も「負の価値」に一定の価値を認めるということになって、そうなれば、ある技術を実際に適用することを禁止する根拠にもなるのかなと思った次第です。
示唆に富んだご回答、ありがとうございます。
長くなりそうですので、分けてコメントします。
【人々が素朴に願う「病気がなく、健康で長生きできる社会」と「生命科学・医学の目指す社会」の関係】
人々が素朴に願う理想の社会は、おっしゃるように「病気がなく、健康で長生きできる社会」が代表的なイメージなのだと思います。生命科学・医学は、あらゆる技術を駆使して人々の希望を実現しようとしてきました。あくまでもその希望は、「今、存在している人々の希望」ですけれど。
生真面目な生命科学・医学は、様々な病を克服しあたかも不老不死を最終目的とするかのごとく、研究に邁進しています。佐藤様が述べられているように、「医療技術が解決できるのはそのほんの一部」なのだとすれば、生命科学・医学の目標はよく分からなくなりますので、ここでは一旦上記のような目標とします。誰もが病気にならず不老不死を手に入れたとすると、つまり生命科学・医学が目的を達成したとすると、それは究極の幸福な社会なのでしょうか。佐藤様も触れておられますが、不老不死は幸福ではない。映画TIMEもそのような内容だったと思いますし、ルソーもエミールでそう言っていますね。つまり、「人は必ず死ぬ」は変えるべきではないのでしょう。ですので、生命科学・医学は不老不死を目指してはならないと社会が要請するものとします。「人は死ぬ義務がある」ということですね。となると、死に「善い死」と「悪い死」があるのではないかと考えられます(これは次のコメントへ回します)。
【「善い死」と「悪い死」】
死が二種類に分けられるのだとすると、人々は生命科学・医学に「悪い死」をなくすことを願うでしょう。人々が「悪い死」の定義を示さないかぎり(おそらく「善い死」とは老衰なんでしょう。そこで「老衰とは何か」という問題が出てきますが、今は触れません)、生命科学・医学は、自分たちが考える「悪い死」をなくすように研究に邁進していきます。つまり、「悪い死」の定義を生命科学・医学がすることになります。これは、生命科学・医学が「善い人生モデル」というものを想定し、それから外れる場合に介入していくのだという見方もできそうです。人生そのものが、人々の手から離れていっているようです。それはもはや人々が素朴に願う「病気がなく、健康で長生きできる社会」とはかけ離れたものになっているようにも思えます。イヴァン・イリッチや森岡正博が危惧しているのはこの点なのだと思うのですが、如何でしょうか。
【医療技術が解決できるのはそのほんの一部】
佐藤様がお示しのように、一般的にはそのような感覚で正しいのだと思います。ですが、当事者たちはそうではないのではないでしょうか。甲子園出場を目指さない高校野球部はないと思いますので、意識しているかしていないかはわかりませんが、自分の研究に関連した病いを克服することを突き詰めると、はるか彼方に不老不死があるはずです。しかし現実的に不老不死を目指していないのであれば、「人は必ず死ぬ」を受け入れることになります。そうであれば、先の「善い死」、「悪い死」の考えから、医学・医療(ここでは生命科学を除いてみます)の目的とは、「如何に人に善い死を迎えさせるか」ということになります。こう考えて宜しいでしょうか。
また別の視点から。医療技術が解決できるのはほんの一部だとしても、研究対象の分野は、どのように決まるのでしょう。純粋に研究者の好みでしょうか。それとも社会の要請でしょうか。20年くらい前までは、新しい抗生物質が続々と出てきていました。しかし今はかなりペースが落ちています。機序的に新しい抗生物質を生み出す余地が少なくなっていることや、また開発に膨大な資金がかかることなどから、製薬会社がこの分野の研究を渋っているように見えます。つまり、どの分野の研究が進むのかは、市場原理に委ねられているとも言えます。iPS周辺にもさまざまな営利企業が絡んできているようですし、「健康の鍵を市場原理が握っている社会」は、私たちが望んでいた社会なのだろうかと思うのですが、如何でしょうか。
【抗生物質】
佐藤様は、抗生物質の登場を善いことのように捉えておられますが、果たしてそうでしょうか。抗生物質の開発ペースが落ちているとともに、薬の効かない細菌はどんどん増えています。抗生物質の研究者であったルネ・デュボスは、細菌との競争に最終的には負けると悟り、研究から手を引きました。イヴァン・イリッチも『脱病院化社会』で抗生物質の登場のタイミングと結核による死亡率を検討していますが、死亡率低下の主要因は、栄養状態・衛生状態の改善だと分析しています。ポール・ファーマーも『権力の病理』で、貧困国で多剤耐性結核が蔓延していることを指摘しています。
抗生物質の出現は、本当に人類にとって善いことだったのでしょうか。後世の人々から恨まれることはないのか心配なのですが、どう思われますか?
【再び「負の価値」】
佐藤様もおっしゃっておられるように、そもそも痛みや苦しみはなくならないのかも知れません。死は不可避であり、生命科学・医学は死をほんの少し向こうへ押しやるだけだからです。
「人々が望んでいる社会」を功利主義的に考えると、「最大多数の最大幸福」あるいは「不幸の最小化」を目指した社会という見方もできるのではないでしょうか。果たして全体として痛みや苦しみは、減っているんでしょうか。生命科学・医学も、あるレベル以上、あるいはある分野では、功よりも害の方が多いかもしれないと疑ってかかる必要はないでしょうか。
バーナード・ショーは
「科学は一つの問題を解決するのに、いつも十の問題を新たに作りだす」
と言っています。
生命科学・医学も、あるものは目の前の問題を別の問題にすり替えているだけなのではないかという見方もできます。そう考えると、功利主義的に望ましい社会に向かっているのかどうか、疑問が出てきます。
宇沢弘文が、「自動車の社会的費用」を考察したように、あるレベル以上の、あるいはある分野の「医療の社会的費用」を考察してみる必要があるのではないでしょうか。宇沢弘文は、医療は社会資本として資本主義・競争原理の外におかなければならないと言っていますので、あくまでも「あるレベル以上の、ある分野の」という限定付きです。
私も「病苦には負の価値があるのだからそれを保護する」とは思っていません。病苦を取り除くための技術が、結局新たな苦しみを生むのであれば、目の前の病苦に「負の価値」を認めたほうが、功利主義的に幸福は大きくなる、そういう見方もできるのではないでしょうか。ただし、苦痛を取り除き尊厳を保つことは大前提です。
【「薬、暴力、恐怖」】
「薬、暴力、恐怖」に関しては、同じことをおっしゃっているのではないかと思うのですが。
質問にも書いていますように、「生きているという感覚を得るため」です。森岡正博が言うように、無痛であることは生きる意味を忘却してしまうのかも知れません。その苦しみから逃れるために、「薬、暴力、恐怖」を求めるのではないでしょうか。
危険な登山をなぜ人はするのか。健康・長寿が人生の目標ではなく、命を賭けてでもやりたいことがある方が幸せなのかもとも思います。人々が「病気がなく、健康で長生きできる社会」を望んだとしても、それは素朴な生活の基本というレベルの話だと思います。健康・長寿そのものの価値が重要であるかのように医学・医療が喧伝し、それに染まっていく人々が多くなれば、それは「医療の工業化」の弊害かもしれません。
命を賭けてでもやりたいことがある人生の方が充実しているようにも思います。
長々とコメントを連ねてしまいましたが、長年悶々と考え続けていることです。是非、専門家の方にご意見を伺いたいと思っております。よろしくお願い致します。
【「善い死」と「悪い死」】(再び)
佐藤様、コメントをありがとうございました。
いろいろと考えることが多く、お返事が遅くなりました。
不老不死が現実的ではないのであれば、佐藤様は「その人が持っている寿命をまっとうすること」が「善い死」だとお考えなのではないでしょうか。「きちんと生きることができるように」ということは、裏返せば「善い死」が迎えられるということでしょうし、「医療や医療者はその手助けができればよい」とお考えのように思えます。
そうであれは、私の考えと同じだと思われますが、如何でしょうか。
それとも、そもそも倫理や哲学の分野では、「善い死」、「悪い死」という分け方はしないんでしょうか?
【人類の激減の容認】
抗生剤の恩恵は確かにご指摘のようなものがあるとは思いますし、他の科学技術の発展について、同様の意見をお持ちの方も少なからずおられます。しかしその恩恵を受けられるのは、いわゆる先進国の人たちなのではないでしょうか。
詳細は、ポール・ファーマー『権力の病理』をご参照下さい。
佐藤様は、強力な耐性菌の出現で人類が激減することも歴史の流れとして受け入れなければならないとお考えですが、その歴史の流れを作った先進国の巻き添えを食って死んでいく途上国の人々に、この考えは受け入れられるのでしょうか?
そこには温暖化対策で見られる先進国と途上国の間にある対立と同じものを感じます。先進国は、これまでCO2を無制限に排出し豊かな生活を享受してきたのに、途上国にはそれをさせないのは許せないといった論点です。
この点に対して、佐藤様はどう反論されますでしょうか。私も心の奥ではこのような問題には目を向けないで過ごせたら(つまり、うまく反論できたら)どんなにいいだろうと思っていますので、よろしくお願いします。
【欲望の適切な抑制】
医療が善い死(これは同意いただけていない言葉ですが)を手助けするとは、具体的にどういうことでしょう。医療技術の発展は、それをますます困難にしている(自然な死を阻害している)ようにさえ思えます。佐藤様もご指摘のように、人々の欲望はますます肥大化していくからです。
果たしてその先に本当の幸福はあるのか、この点を今一度、深く考えてみる必要があるのではないでしょうか。
橳島次郎さんは、生命倫理に欲望を規制する一定の基準や条件を見つけ出す役割を求めています。まさに佐藤様が、人々の肥大化した欲望に「科学や医学の技術で応える必要はなく」とお考えであることに通じるように思います。
そういった抑制を、例えばフランスの生命倫理法のように、自律尊重に基づいた個人の権利よりも、社会秩序を維持するために「種の尊厳」が優先される場合があるといった原則を日本も打ち出す必要があるように思うのですが、如何でしょうか?
生や死の問題を個人の問題ではなく、社会の問題として捉える視点(医療資源の配分なども含める)が、日本人には希薄なのでしょうか?
【延命と患者の利益】
もし患者が、一秒でも長生きすることを望んでいたらどうなんでしょう。「患者の意思を叶えること」=「患者の利益」との主張があると思いますが、逆に「患者の意思を叶えること」≠「患者の利益」と主張するならば、どういう論理構成でできるのでしょうか。
ここは是非、ご教示いただきたい点です。
【「役に立つ」という視点】
研究者や医療者自身が、社会に対して「役に立つ」をアピールするのは問題だと思います。「役に立つ」には、どうしても主観的な価値観が入ります。ハイデガーのゲシュテルですね。今の社会は「有用」という尺度が過剰に認められているように感じます。その背後には資本主義があると思うのですが、資本主義の思想がわれわれ(患者、研究者、医療者すべて)の潜在意識に入りこみ、選好に強く影響を与えている。果たしてそれが善いのか悪いのか、人文学(哲学や倫理など)に判断、あるいは考える道筋・ポイントを示して欲しいです。
【「役に立つ」という視点の普遍性】
ついでに、「普遍的に役に立つといった表現はできるのか」を考えてみます。今、ある場所で特定の状況の人にとって役に立っているものでも、別の時代、別の場所、別の状況下では役に立たない、あるいは害を与えるということがあるのではないかということですが、普遍性を探っていくと、「人間の歴史の目的」とか「幸福の追求」といったことを考えるようになるかと思います。そして、この辺りを追求していくと、ニーチェにたどり着いてしまう。
そして多くの人々が、ニヒリズムの克服を目指しましたが、おそらく有効な処方箋は見つかっていないのではないでしょうか。ただ現実的な対処法の一つに、佐藤様がご指摘のように、「大きな希望や期待を持つのではなく、日々の生活を送ること」に注目することを勧めているものもあります。これらは患者側の立場ですが、医療側から何かするべきことがあるでしょうか。
もしかすると、お書きのように「医療の目的を踏まえた上で患者一人ひとりのゴールをきちんと設定し、納得してもらえるように説明する」が答えなのかもしれません。となると、「医療の目的」とは、「善い死を迎えさせること」(「善い死」という言葉の使用に同意いただいてはいませんが)で、「善い死」の定義は、医療側が主導権を握って決定しているように思えます。完全に患者の意思を無視するわけではないのでしょうが、そのように提案された「善い死」を患者が受け入れることこそ、幸福なのだといわんばかりですね。
【延命と患者の利益】にも関連していますが、それが悪いと言っているわけではありません。私もそれがいいのではと薄々感じているのですが(かなりパターナリスティックな医療とも取れますが)、このような方針決定作業を正当化するには、臨床倫理面での医療環境をどのように変えていくことが必要でしょうか?
【科学や医療の限界】
不確実性は分かりますが、限界というのはどうなんでしょう。佐藤様のまわりの研究者は、現実的に限界を意識して(あるいは限界を決めて)研究を進められておられるのでしょうか?
つまり、技術的な限界を感じておられるのか、それとも倫理的にこれから先へは踏み込んではいけないと自主規制されておられるのか、という点です。
具体的に申しますと、「がんは技術的に克服できない」とか、「脳移植は倫理的にしてはならない」とか、「老化の克服は研究対象としてはならない(これはどちらなんだろう?)」などですが、ここでの「限界」とはどのようなことをお示しなのでしょうか?
単に、「不老不死は目指さない」という意味での「限界」だとしても、それは技術的という視点なのか、倫理的な視点なのか、各研究者はどのようにお考えなのかを知りたいところです。
大変貴重なご質問ありがとうございます。ご意見の通り、近親婚を禁じる良い理由はないように思います。
私も優生学的な配慮はよい理由ではないと思いますし、また社会倫理的配慮というのも結婚の自由を制約するよい理由ではないと思います。
近親相姦のタブーは生物学的な根拠も指摘されるところですが(ウェスタマーク効果)、だからといってそれに基づいて
近親婚を法的に禁じることは認められないと考えます。
自発的な合意を保証するためにどの関係(きょうだい、親子など)であれば認めるべきかについては議論がありうるかと思いますが、
原則として、近親婚を禁じることは結婚の自由に対する不当な制約のように思われます。
ただし、同性愛に対する昨今の(以前よりも)寛容な態度に比べて、近親婚に対しては強い不寛容があるように
思いますので、このような不寛容を克服する方法を考える必要があるかと存じます。