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イヴァン・イリッチの「負の価値」

投稿者:匿名希望
2015年08月13日

イヴァン・イリッチは『脱病院化社会』で、病苦の持つ「負の価値」に触れています。科学技術、とくに生命科学・医学は、病苦を取り去るべく努力を重ねてきましたが、生命科学・医学が目指している社会は、本当に人類が理想とする社会なんでしょうか。
痛みや苦しみのない社会では、哲学や宗教は生まれなさそうだし、イリッチは、そのような“麻酔された社会”では、人々は次第に強い刺激を求めるようになり、生きているという感覚を得るために、“薬物、暴力、恐怖”を求めるようになると言います。

同じようなことをルネ・デュボスも『健康という幻想』で言っていますね。

イヴァン・イリッチのいう「負の価値」という考えを単純に正当化していいものかどうか分かりませんが、生命倫理ではどう扱っていけばいいのでしょうか。

  1. 2015年08月13日  回答者:長尾式子

    投稿を拝読いたしました。興味深いです。
    ただ、拝見して、気になったのは、生命科学の目的と、医学の目的は区別されたほうがいいのかと。

    それから、急性期のような医療機関の苦痛を考えたとき、医学が緩和しようとしている苦痛と、社会の中の痛みも区別するほうがよいかと。疾患から来る苦痛は、人間社会で直面する、感じる痛みや苦しみと異なるのではないでしょうか。

    もちろん、疾患の苦痛を緩和しようとして発展・開発してきた除痛薬や手技は、時として悪用されますが。

    ですから、その薬や手技で患者さんは、人として生活する人間社会の中で直面している苦痛を除くことができているのか。と問われたら、できていないのだと思います。ですから、臨床医療における痛みは負の価値というより、やはりできるだけ緩和のニーズのある痛みだと思います。

    ここで、医療現場の次のような苦痛はどうでしょうか。
    病気からくる苦痛でも、例えばその苦痛が生殖補助医療や、代理懐胎など出なければ苦痛を緩和できないとすれば、どうなのでしょうか。

    先の事例は、少なくともがん性疼痛や、胸痛といった急性増悪の痛みや慢性的な身体的な痛みのことですけど。
    後者の苦痛は、それ以外のものになります。この場合の痛み=負は、それがあることが正の価値を生むのも確かです。ただ、負の価値が常に正しいのか、善いのかということはやはり当事者の感情や認識によるような気がします。

    とりとめもなく述べてしまいました。ずれていたらすみません。

  2. 2015年08月14日  回答者:匿名希望

    ご回答、ありがとうございます。

    少しお尋ねしたいのですが、「生命科学の目的と、医学の目的は区別したほうがいい」とのご指摘ですが、どのような違いがあるのでしょうか。生命科学の方は純粋に科学であって、医学の方は実学に近いといったような違いのことでしょうか?

    また苦痛の種類の区別をいろいろとご指摘いただきましたが、私が質問で挙げました「負の価値」というのは、森岡正博が『無痛文明論』で述べているものとも同じだと思います。

    結局は、森岡正博もイヴァン・イリッチと同じことを指摘しているのだと思いますが、さまざまな技術によるさまざまな苦痛の除去、これはある意味で欲望の充足ですね。そのような技術の出現で「負の価値」を失うことの社会の損失に加えて、そのような新たな技術の出現は、結局は新たな問題を引き起こすという指摘もあります。

    このような考え方を踏まえると、それは「社会をよくする方向に向かっている」とはいえないという結論も出せるのではないかと思うのですが、如何でしょう。

    そういうことを総合的に判断した場合、生命倫理も「負の価値」に一定の価値を認めるということになって、そうなれば、ある技術を実際に適用することを禁止する根拠にもなるのかなと思った次第です。

  3. 2015年08月17日  回答者:佐藤恵子

    「生命科学・医学が目指している社会」がどういう社会なのか、人によってイメージが異なると思いますが、神社仏閣で護摩木や絵馬を拝見すると、日本のみなさんの願うところは「無病息災、家族が今年も健康で過ごせますように」などが多く、「病気がなく、健康で長生きできる社会」あたりを指すものと思われます。痛みや苦しみはいやだし、死ぬのも怖いですから、これらを避ける手立てがあれば使いたいし、手立てがないのなら科学者に作ってほしい、というのは人間の共通の願いのように思います。その昔、疫病が大流行して始末しきれない死体が町中にころがっていた風景は酸鼻を極めたと想像できますし、病苦を避けようにも祈るしか手だてがなかった時代の人々から見れば、抗生物質や予防接種がある現在は天国のように見えるでしょう。医療技術で痛みや病気を回避することができる現在は、当時から比べれば「より苦痛の少ない理想的な社会」と言えます。

     しかし、痛みや苦しみは、なくなっているのでしょうか? 私自身は、人間は生まれた瞬間から死ぬことが約束されていて、昨日生まれた子どもも100歳の人も、日々それに向かって一直線に歩いており、その意味では生まれること・生きていること自体が苦しみそのものであり、人は常に無限の苦しみを抱えているものと思っています。「死」を病気と定義するのはおかしいかもしれませんが、死の苦しみから逃れられる人はいないという意味では、生きている人は全員「病気」です。ある人が健康か非健康かという区別もすることができず、「生きていくのに人の手が必要な状態かどうか」というだけであり、障碍や傷病がある人は、他の人より多く手助けが必要なだけ、ということになります。

    そして、「薬、暴力、恐怖」などは、「無痛だから刺激がほしくて起こすこと」ではなく、生きる苦しみから生じる怒りや欲望が引き起こしている結果であると考えられないでしょうか。すなわち、刺激のない生活がもたらす苦しみから逃れたくて薬を使う、抑圧や貧困からくる理不尽さが怒りを生み他者を攻撃する、ということではないかと思います。仮に、医療技術により病苦もなく死ぬこともない状態が実現したとしたら、人魚の肉を食べて不老不死となった八百比丘尼が自らの運命を呪ったように(八百比丘尼伝説)、「死ぬことができない」という状況が苦しみを生むように思います。

    ですので、痛みや病苦が、それを克服するための技術や制度を発展させたり、さまざまな学問や宗教や芸術作品を生んできたという意味では「価値がある」という言い方ができるかもしれませんが、「病苦には負の価値があるのだからそれを保護する」といったものではないように思います。人が生きること自体が苦しみであり、涅槃の境地にいる少数の人以外は日々無限の苦しみを抱えていること、医療技術が解決できるのはそのほんの一部であることを考えれば、「病苦がなくなることでより刺激を求めるようになる」というイリッチの心配は杞憂と言えます。

     苦しみの実相を知り、それからいかに逃れるかを考えることは人の営みそのものであり、哲学や宗教は、身体の痛みを緩和する医療技術と同様、心の痛みを緩和する手段として必要とされるものと思います。すべての人が宗教をもつ必要があるとは思いませんが、宗教が教えるところは心の平穏を保つのに役に立ちますので、とくに若い人が就職がうまくいかなくて絶望するという話を聞いたりすると、日本でも宗教の役割がもう少しあってもよいのにと感じています。

  4. 2015年08月18日  回答者:匿名希望

    示唆に富んだご回答、ありがとうございます。

    長くなりそうですので、分けてコメントします。
    【人々が素朴に願う「病気がなく、健康で長生きできる社会」と「生命科学・医学の目指す社会」の関係】
     人々が素朴に願う理想の社会は、おっしゃるように「病気がなく、健康で長生きできる社会」が代表的なイメージなのだと思います。生命科学・医学は、あらゆる技術を駆使して人々の希望を実現しようとしてきました。あくまでもその希望は、「今、存在している人々の希望」ですけれど。
     生真面目な生命科学・医学は、様々な病を克服しあたかも不老不死を最終目的とするかのごとく、研究に邁進しています。佐藤様が述べられているように、「医療技術が解決できるのはそのほんの一部」なのだとすれば、生命科学・医学の目標はよく分からなくなりますので、ここでは一旦上記のような目標とします。誰もが病気にならず不老不死を手に入れたとすると、つまり生命科学・医学が目的を達成したとすると、それは究極の幸福な社会なのでしょうか。佐藤様も触れておられますが、不老不死は幸福ではない。映画TIMEもそのような内容だったと思いますし、ルソーもエミールでそう言っていますね。つまり、「人は必ず死ぬ」は変えるべきではないのでしょう。ですので、生命科学・医学は不老不死を目指してはならないと社会が要請するものとします。「人は死ぬ義務がある」ということですね。となると、死に「善い死」と「悪い死」があるのではないかと考えられます(これは次のコメントへ回します)。

  5. 2015年08月18日  回答者:匿名希望

    【「善い死」と「悪い死」】
     死が二種類に分けられるのだとすると、人々は生命科学・医学に「悪い死」をなくすことを願うでしょう。人々が「悪い死」の定義を示さないかぎり(おそらく「善い死」とは老衰なんでしょう。そこで「老衰とは何か」という問題が出てきますが、今は触れません)、生命科学・医学は、自分たちが考える「悪い死」をなくすように研究に邁進していきます。つまり、「悪い死」の定義を生命科学・医学がすることになります。これは、生命科学・医学が「善い人生モデル」というものを想定し、それから外れる場合に介入していくのだという見方もできそうです。人生そのものが、人々の手から離れていっているようです。それはもはや人々が素朴に願う「病気がなく、健康で長生きできる社会」とはかけ離れたものになっているようにも思えます。イヴァン・イリッチや森岡正博が危惧しているのはこの点なのだと思うのですが、如何でしょうか。

  6. 2015年08月18日  回答者:匿名希望

    【医療技術が解決できるのはそのほんの一部】
     佐藤様がお示しのように、一般的にはそのような感覚で正しいのだと思います。ですが、当事者たちはそうではないのではないでしょうか。甲子園出場を目指さない高校野球部はないと思いますので、意識しているかしていないかはわかりませんが、自分の研究に関連した病いを克服することを突き詰めると、はるか彼方に不老不死があるはずです。しかし現実的に不老不死を目指していないのであれば、「人は必ず死ぬ」を受け入れることになります。そうであれば、先の「善い死」、「悪い死」の考えから、医学・医療(ここでは生命科学を除いてみます)の目的とは、「如何に人に善い死を迎えさせるか」ということになります。こう考えて宜しいでしょうか。
     また別の視点から。医療技術が解決できるのはほんの一部だとしても、研究対象の分野は、どのように決まるのでしょう。純粋に研究者の好みでしょうか。それとも社会の要請でしょうか。20年くらい前までは、新しい抗生物質が続々と出てきていました。しかし今はかなりペースが落ちています。機序的に新しい抗生物質を生み出す余地が少なくなっていることや、また開発に膨大な資金がかかることなどから、製薬会社がこの分野の研究を渋っているように見えます。つまり、どの分野の研究が進むのかは、市場原理に委ねられているとも言えます。iPS周辺にもさまざまな営利企業が絡んできているようですし、「健康の鍵を市場原理が握っている社会」は、私たちが望んでいた社会なのだろうかと思うのですが、如何でしょうか。

  7. 2015年08月18日  回答者:匿名希望

    【抗生物質】
     佐藤様は、抗生物質の登場を善いことのように捉えておられますが、果たしてそうでしょうか。抗生物質の開発ペースが落ちているとともに、薬の効かない細菌はどんどん増えています。抗生物質の研究者であったルネ・デュボスは、細菌との競争に最終的には負けると悟り、研究から手を引きました。イヴァン・イリッチも『脱病院化社会』で抗生物質の登場のタイミングと結核による死亡率を検討していますが、死亡率低下の主要因は、栄養状態・衛生状態の改善だと分析しています。ポール・ファーマーも『権力の病理』で、貧困国で多剤耐性結核が蔓延していることを指摘しています。
     抗生物質の出現は、本当に人類にとって善いことだったのでしょうか。後世の人々から恨まれることはないのか心配なのですが、どう思われますか?

  8. 2015年08月18日  回答者:匿名希望

    【再び「負の価値」】
     佐藤様もおっしゃっておられるように、そもそも痛みや苦しみはなくならないのかも知れません。死は不可避であり、生命科学・医学は死をほんの少し向こうへ押しやるだけだからです。
     「人々が望んでいる社会」を功利主義的に考えると、「最大多数の最大幸福」あるいは「不幸の最小化」を目指した社会という見方もできるのではないでしょうか。果たして全体として痛みや苦しみは、減っているんでしょうか。生命科学・医学も、あるレベル以上、あるいはある分野では、功よりも害の方が多いかもしれないと疑ってかかる必要はないでしょうか。
    バーナード・ショーは
    「科学は一つの問題を解決するのに、いつも十の問題を新たに作りだす」
    と言っています。
     生命科学・医学も、あるものは目の前の問題を別の問題にすり替えているだけなのではないかという見方もできます。そう考えると、功利主義的に望ましい社会に向かっているのかどうか、疑問が出てきます。
     宇沢弘文が、「自動車の社会的費用」を考察したように、あるレベル以上の、あるいはある分野の「医療の社会的費用」を考察してみる必要があるのではないでしょうか。宇沢弘文は、医療は社会資本として資本主義・競争原理の外におかなければならないと言っていますので、あくまでも「あるレベル以上の、ある分野の」という限定付きです。
     私も「病苦には負の価値があるのだからそれを保護する」とは思っていません。病苦を取り除くための技術が、結局新たな苦しみを生むのであれば、目の前の病苦に「負の価値」を認めたほうが、功利主義的に幸福は大きくなる、そういう見方もできるのではないでしょうか。ただし、苦痛を取り除き尊厳を保つことは大前提です。

  9. 2015年08月18日  回答者:匿名希望

    【「薬、暴力、恐怖」】
     「薬、暴力、恐怖」に関しては、同じことをおっしゃっているのではないかと思うのですが。
     質問にも書いていますように、「生きているという感覚を得るため」です。森岡正博が言うように、無痛であることは生きる意味を忘却してしまうのかも知れません。その苦しみから逃れるために、「薬、暴力、恐怖」を求めるのではないでしょうか。
     危険な登山をなぜ人はするのか。健康・長寿が人生の目標ではなく、命を賭けてでもやりたいことがある方が幸せなのかもとも思います。人々が「病気がなく、健康で長生きできる社会」を望んだとしても、それは素朴な生活の基本というレベルの話だと思います。健康・長寿そのものの価値が重要であるかのように医学・医療が喧伝し、それに染まっていく人々が多くなれば、それは「医療の工業化」の弊害かもしれません。
     命を賭けてでもやりたいことがある人生の方が充実しているようにも思います。

     長々とコメントを連ねてしまいましたが、長年悶々と考え続けていることです。是非、専門家の方にご意見を伺いたいと思っております。よろしくお願い致します。

    • 2015年10月01日  回答者:佐藤恵子

      再度のコメント、ありがとうございました。

      どうお答えしたらよいものか難しいですが、医療技術の発展と人間の関係はどうあるべきかという大きな問いかけをいただいているのかなと思い、私自身も大変興味があるところです。

      まず、医療技術の目的や医療者の目指すことについてですが、「不老不死」を挙げる人も中にはいるとは思いますが、私は、「死を迎えるまでの間をなるべく健やかに過ごせるようにすること」と考えています。私のまわりには生活習慣病の専門家や幹細胞の研究者も多いですが、不老不死を目指して医療や研究を実践している人にお目にかかったことはありません。そして、死に「善い・悪い」があるかどうかわかりませんが、「長生きして老衰で死ぬ」ことだけが善いわけではなく、私自身は、その人が持っている寿命をまっとうするのがよいことだと思っています。10日しか生きられない人であれば10日を、10年なら10年を、100年なら100年をきちんと生きることができるように、医療や医療者はその手助けをできればよいと思います。

      そして、医療技術は、よい面も悪い面もありますので、その特性を知った上で、患者も医療者も、あまりにも自然の摂理のようなものから逸脱しない範囲内で使用すべきと思います。抗生剤がなかった時代に、若者が肺結核で死亡していたのが、抗生剤によって生き延びることができるのはよいことだと思います。抗生剤が登場したおかげで薬剤抵抗性の肺結核が出現したのはよくないことですが、社会全体から見れば、抗生剤の恩恵を受ける人の方が多いと思います。強力な耐性菌が生まれ、それに対抗できる手立てや封じ込める手段がなくて人類が激減するのでしたら(宿主を絶滅させたら菌も生きていけないのでたぶん絶滅はないと思いますが)、それは歴史の流れとして受け入れてもらうしかないでしょう。

      私は医療技術が発達することで人の生命が延びたり、QOLが改善すること自体はよいと思うのですが、よくないことがあるとすれば、一つは「一般の人々の欲望をさらにかき立てる」ということのように思います。死にたくない、苦痛は避けたい、というのは誰もが普通に思うことですので、一昔前には手だてのなかった病気や症状を「そういうものだ」と受け入れていたのが、新しい技術で治るようになれば、「もっと良くなりたい」「もっと長生きしたい」という希望が次々出てくることになります。病気や症状を普通に生活できる状態に戻すまでは許容されてしかるべきで、医療のゴールもそのあたりだと思いますので、それ以上の度を超えた欲望、たとえば臓器を入れ替えて500歳まで生きたいといった貪欲については科学や医学の技術で応える必要はなく、たとえば「本人の考え方を変えてもらう」など、人文学の知恵に解決してほしいところです。

      もう一つは、医療者も、手持ちの技術があればあるだけ使用して、一秒でも延命することがよいことである(それをしないのは良くないこと、もしくは誰かから責められないためにやっておくのが無難)と思い込み、「患者の利益は何か」を考えられなくなることかと思います。抗生剤も、肺結核の患者を治すために投与するのは合理的ですが、臓器不全で臨終期にある高齢者が肺炎にかかったときに投与するのは、死期をほんの少し先送りするのみでそのこと自体がむしろ本人に苦痛を与えるでしょうし、益があるとは思えません。しかし、他の生命維持装置なども同じように使用されている現状があり、いずれも患者に害を与えることにしかなっていないのではと危惧しています。
      人々が過度の欲望や期待をもつ原因の一端は、研究者や医療者自身にもあるかもしれません。新しい技術が出てきたときはすぐにも臨床応用されて人の役に立つようなアピールがされることが多く、市民の中には「夢の治療法が出現した」ように受け取る人も少なくないと想像します。「なにができるようになったのか」を語るのは結構ですが、それと同じくらい「何ができないのか」を語り、科学や医療の不確実性や限界をきちんと説明したり、医療の目的を踏まえた上で患者一人ひとりのゴールをきちんと設定し、納得してもらえるように説明するのも、研究者や医療者の役割だと思います。

      同時に、科学や技術が発達することでもたらされる欲望が見果てぬ夢でしかなければ、苦しみにしかなりませんので、心の苦しみを増やしていると言えます。したがって、ここから脱するには、科学の進歩で死を少し先延ばしにしたり身体の苦痛を緩和することはできても、死を免れるのは不可能であること、したがって、大きな希望や期待を持つのではなく、日々の生活を送ることが大事であることを、まずは知る必要があると思います。命をかけてでもやりたいことをやるのはその人の自由ですが、それでその人の人生が充実したものかどうかは別ですし、他人が判断することでもありません。本人も、評価できるとしたら生を終えるあたりの時期でしょうし、すべては事後的にしかわからないことであれば、今の1秒、1分をきちんと生きるというのが一番よいのではないでしょうか。

  10. 2015年10月22日  回答者:匿名希望

    【「善い死」と「悪い死」】(再び)

    佐藤様、コメントをありがとうございました。
    いろいろと考えることが多く、お返事が遅くなりました。

     不老不死が現実的ではないのであれば、佐藤様は「その人が持っている寿命をまっとうすること」が「善い死」だとお考えなのではないでしょうか。「きちんと生きることができるように」ということは、裏返せば「善い死」が迎えられるということでしょうし、「医療や医療者はその手助けができればよい」とお考えのように思えます。

    そうであれは、私の考えと同じだと思われますが、如何でしょうか。

    それとも、そもそも倫理や哲学の分野では、「善い死」、「悪い死」という分け方はしないんでしょうか?

    • 2015年12月24日  回答者:佐藤恵子

      Kadaさん、お返事ありがとうございました。人の生き死にと医療の知識や技術とのかかわりについて、簡単に答えが出るものではありませんが、あれこれ考えてみることは面白くて、また、いろいろな方のご意見を聞けるのは楽しいです

  11. 2015年10月22日  回答者:匿名希望

    【人類の激減の容認】
     抗生剤の恩恵は確かにご指摘のようなものがあるとは思いますし、他の科学技術の発展について、同様の意見をお持ちの方も少なからずおられます。しかしその恩恵を受けられるのは、いわゆる先進国の人たちなのではないでしょうか。
    詳細は、ポール・ファーマー『権力の病理』をご参照下さい。
     佐藤様は、強力な耐性菌の出現で人類が激減することも歴史の流れとして受け入れなければならないとお考えですが、その歴史の流れを作った先進国の巻き添えを食って死んでいく途上国の人々に、この考えは受け入れられるのでしょうか?

     そこには温暖化対策で見られる先進国と途上国の間にある対立と同じものを感じます。先進国は、これまでCO2を無制限に排出し豊かな生活を享受してきたのに、途上国にはそれをさせないのは許せないといった論点です。

     この点に対して、佐藤様はどう反論されますでしょうか。私も心の奥ではこのような問題には目を向けないで過ごせたら(つまり、うまく反論できたら)どんなにいいだろうと思っていますので、よろしくお願いします。

    • 2015年12月24日  回答者:佐藤恵子

      目先の利益しか考えず、その結果として強力な耐性菌を発生させてパンデミックを招き、なすすべもなく立ち尽くす先進国の巻き添えになり、滅亡しつつある途上国の人たちに対して、先進国の生き残り連中がやれることがあるとしたら、「すまん、この通りだ。我々も万策尽きてどうにもならん、勘弁してくれ」と開き直りながら謝ることくらいしかないのではと思います。もちろん、もし先進国に力が残っていたとしたら、お金や医療技術をかき集めて差し上げるぐらいのこともやったらよいと思います。しかし、おそらくは地球上のいたるところが、ペストが大流行した中世のヨーロッパのような状況になっているでしょうから、何かつぐないらしきことをしてみたところで役に立つとは思えません。せいぜいできることは、惨禍を逃れた人々(おそらくはその病気に強い遺伝的特性をもっているはずです)が、知恵と力を集めて拡大の防止や対応策を考え、生き延びる方策を立てて提供するくらいでしょうか。人間を全滅させたら病原菌自体も宿主を失って生きていけないので、人類が全滅することはないでしょうし、考える余力はあるように思います。
      しかし、どうせ知恵を絞るのでしたら、パンデミックが起きた後ではなく、もう少し前の段階、すなわち、人口が激減するような事態や途上国が巻き添えで滅亡するような事態を招かないことを考え、対策を立てるところに知恵を使った方がよいと思います。新しい技術は、あるからすぐ使ってよいというものではなく、自分たちがどのような世界をつくりたいのかを考えて、その技術がどのような役割を演じるのかを吟味して、使うかどうかや使い方を検討することが必要で、この検討作業そのものも技術のうちに含まれていなくてはならないと思います。しかし、とくに日本ではこの作業の重要性や必要性が認識されておらず(犯罪的なまでに無視されてきた、という言い方があたっているかもしれません)、私たちは、それが科学や技術が健全に発展するのを阻害する要因や、新しい医療技術がかえって人々の利益を損なう事態を招いている要因になっているのではと考えており、今後このあたりの活動をしていければと思っています。

  12. 2015年10月22日  回答者:匿名希望

    【欲望の適切な抑制】
     医療が善い死(これは同意いただけていない言葉ですが)を手助けするとは、具体的にどういうことでしょう。医療技術の発展は、それをますます困難にしている(自然な死を阻害している)ようにさえ思えます。佐藤様もご指摘のように、人々の欲望はますます肥大化していくからです。    
     果たしてその先に本当の幸福はあるのか、この点を今一度、深く考えてみる必要があるのではないでしょうか。

     橳島次郎さんは、生命倫理に欲望を規制する一定の基準や条件を見つけ出す役割を求めています。まさに佐藤様が、人々の肥大化した欲望に「科学や医学の技術で応える必要はなく」とお考えであることに通じるように思います。
     そういった抑制を、例えばフランスの生命倫理法のように、自律尊重に基づいた個人の権利よりも、社会秩序を維持するために「種の尊厳」が優先される場合があるといった原則を日本も打ち出す必要があるように思うのですが、如何でしょうか?
     生や死の問題を個人の問題ではなく、社会の問題として捉える視点(医療資源の配分なども含める)が、日本人には希薄なのでしょうか?

    • 2015年12月24日  回答者:佐藤恵子

      他の部分のお答えと重なりますが、医療の役割は、人が祝福とともに生まれ、穏やかに日々を過ごし、平穏に旅立っていくのを手助けすることと私は定義しております。それぞれの人には、天地自然からもらったもの(身体や寿命、特性など)がありますので、その人らしさを発揮して活動し、人生をまっとうしてもらうために、医療の知識や技術があるのだと思います。
      生物としての人間の寿命は100歳前後だそうですので、そのあたりまでよい状態で生きたいと希望するのは認められてしかるべきと思いますが、たとえば臓器を入れかえて900歳まで生きたい、もしくは細胞活性化装置を使って不老不死でいたいという希望は認められないように思います。国の医療政策として「不老不死のような希望は貪欲であり、認めない」という取り決めをしておくことは必要かなとも思いますし、専門家集団も、「不老不死を望む人がいるから」を研究推進の根拠や隠れ蓑にしたりせず、何をどこまでやってよいかを考えた上で研究開発や技術応用をすべきだと思います。
      国や専門家もさることながら、私はむしろ市民一人ひとりが「人の命とは何か、死とは何か」を考え、「自分は何をよしとするのか・しないのか」を持っておくことが必要で、大事なのではと思います。とくに私は、今の日本の臨終期のありようは、自然の摂理の中で生きたい(死にたい)と思う日本人の多くが望まない、むしろ嫌悪を感じる状態ではないかと思っており、これを回避するためには一人ひとりが「死は生物として避けられないこと」を前提にして「どうしたいか」を考えておくことが重要ではないかと思います。もちろん医療者も、「専門家集団として、臨終期の患者にどう対応するか」という方針を考えて表明すべきと思います。
      イギリスでも同じような問題を抱えている様子で、National Health Service (厚労省) が「終末期における戦略」というガイダンスを出していて(以下URL)、その中で「善き死とは何か」を論じています。同時に、医師の職能集団(GMC)も終末期のガイダンスを出しており、また、研究者の集団は、国民一人ひとりに終末期の過ごし方について意思表明してもらうことを目的とした活動(Dying Matters)を展開しています。日本でも、このような取り組みが必須であり、勝手連でも活動する予定にしております。
      https://www.gov.uk/government/uploads/system/uploads/attachment_data/file/136431/End_of_life_strategy.pdf

  13. 2015年10月22日  回答者:匿名希望

    【延命と患者の利益】
     もし患者が、一秒でも長生きすることを望んでいたらどうなんでしょう。「患者の意思を叶えること」=「患者の利益」との主張があると思いますが、逆に「患者の意思を叶えること」≠「患者の利益」と主張するならば、どういう論理構成でできるのでしょうか。

    ここは是非、ご教示いただきたい点です。

    • 2015年12月24日  回答者:佐藤恵子

      医療の選択には、それを受ける患者本人の意思が尊重されなくてはならないことは、日本でも一般的に受け入れられつつあると思います。しかし、医療行為は、専門家である医療者が、非専門家の患者さんに施す行為ですので、専門家として妥当ではないと判断されること、たとえば必要のない治療や、ナンセンスな治療、合理的とは思えない治療などは、たとえ患者さんが望んだとしても、実施することはありません。ある人が、「いつも自分の鼻が見えて、気になってしかたがないので鼻を切除してほしい」と希望されても、手術には応じないで、他の方法で対応するのが普通だと思います。別の人が、「ピノキオのような鼻になりたいので、つけてほしい」と希望しても、応じる人はいないと思います。鼻の整形・形成手術をするとしたら、鼻が低すぎるので少し高くしたい、事故で変形したのをどうにかしたい、といった場合に限られると思います。
      ある臨終期の患者さんが、「自分は1分1秒でも長生きしたい」という意思を残していたとしても、回復する点を過ぎた状態でただ死期を延ばすだけにしかなっていない延命治療は、仮に本人にたずねてみても「“生きている”状態」とは言いがたく、本人の負担にしかなりませんので、中止した方がよいのではと私自身は考えます。逆に、ユニークな教義の宗教があって「臨終期の苦しみが大きいほどあの世で安寧が得られるので、鎮痛などの治療も受けたくない」と希望している人がいたとしても、苦しみで七転八倒していた場合は、医療者としては治療をするように思います。
      実際の対応は、医療者一人ひとりのプロフェッショナリズムによるもので、医療者による違いもあると思いますが、医療者の職能集団の方針として、医療者個人に、本人の信念を曲げてまで患者の希望に添うことをするように求めているところは、ほとんどないように思います。

  14. 2015年10月22日  回答者:匿名希望

    【「役に立つ」という視点】
     研究者や医療者自身が、社会に対して「役に立つ」をアピールするのは問題だと思います。「役に立つ」には、どうしても主観的な価値観が入ります。ハイデガーのゲシュテルですね。今の社会は「有用」という尺度が過剰に認められているように感じます。その背後には資本主義があると思うのですが、資本主義の思想がわれわれ(患者、研究者、医療者すべて)の潜在意識に入りこみ、選好に強く影響を与えている。果たしてそれが善いのか悪いのか、人文学(哲学や倫理など)に判断、あるいは考える道筋・ポイントを示して欲しいです。

    • 2015年12月24日  回答者:佐藤恵子

      人々の苦痛を緩和する技術が開発されたときに「役に立つ」と表現するのはよいと思いますが、私は、問題は大きく2つあるかと思います。
      一つは、kadaさんご指摘のように、「役に立つもの」が「お金がもうかるもの」と同義になって解釈されているところです。企業は、構成員が生活できなくては成り立ちませんので、ある程度の利益を上げることが必要であり、製薬企業の研究者が「役に立つ薬」の開発を目指して研究をするのは当然と思いますし、お金もうけそのものがすべて悪いわけではありません。
      ただし「お金もうけに役に立つもの」だけに価値があり、「お金もうけにはならないが役に立つもの」には価値がない、ということになると、大変息苦しくてつまらない世界になるように思います。たとえば、ハッブル宇宙望遠鏡で捉えた遠い銀河の姿は、息をのむほど美しく、宇宙へのロマンがかき立てられたりしますが、直接お金もうけにはつながりません(ひょっとしたら、軍事関連の技術開発などに直接つながっているのかもしれませんが)。ハッブル望遠鏡を軌道に乗せたり維持するのに莫大なお金がかかっていると思われますが、もし「お金もうけ」になることにしか予算を配分しないとなれば、宇宙望遠鏡のプロジェクト自体が無駄であり存在しなかったわけで、未知のものに挑戦したい、謎を解明したいという好奇心や、新たな発見や知識に感動するという人間の営みをほぼ否定することになるのではと思います。
      また、研究費を配分する人が、お金もうけになるような領域の研究のみに資金を配分する方針であれば、カスミを食うだけで研究できる人以外は「金もうけになるかどうか」を最初に考えなくてはいけなくなり、好奇心に導かれた知的な活動を本質とする科学のありようが毀損されるように思います。研究が、資金を獲得する方便としてしか成り立たたず、研究者は自分の興味よりも政治の都合や市場原理を優先しなくてはならないという事態は、科学を腐敗させ、科学者を劣化させるのではと危惧しています。
      2つめの問題は、「役に立つもの」が「よいこと」と解釈していて、「役に立って、よいもの」のみに価値が置かれているところです。ものごとには、よい面とよくない面があり、「役に立つがよくはないもの」もあるし、「役に立たないがよいこと」「役に立たなくてよくないこと」も存在しますので、それぞれについて検討して、価値があるものは認める必要があると思うのですが、役に立ってよいものしか認めないという前提があれば、その作業自体ができないことになります。
      新しい技術を社会が受け入れるかどうかを判断するには、どういう社会を実現したいかという社会全体の目的を踏まえた上で、専門家がリスクや利益、何にどう役立つのか・立たないのか、などを勘案し、もっともよい方向性を判断して示すということが必要です。市民はこれらの情報をもとに判断するわけですが、肝心の専門家の判断が「役に立ってよいもの」、「お金がもうかるもの」に偏っていたり、「役に立つ」というのが「市民の」ではなく、「自分達の利益追求の役に立つ」ということしか考えていないのであれば、科学に対しては冒涜行為、市民に対しては裏切り行為であり、話になりません。したがって、専門家は、新しい技術が「いかに役立つのか」だけではなく、誰の何にどう役立つのか・立たないのか、誰に対してどのようなリスクがあるか、リスクは受け入れ可能か、これらの要素を勘案した結果どのような世界が実現するのか、そして、「専門家としては、社会が受け入れた方がよい、もしくはよくないと思う」というところを過不足なく説明することが役割ではないかと思います。

  15. 2015年10月22日  回答者:匿名希望

    【「役に立つ」という視点の普遍性】
     ついでに、「普遍的に役に立つといった表現はできるのか」を考えてみます。今、ある場所で特定の状況の人にとって役に立っているものでも、別の時代、別の場所、別の状況下では役に立たない、あるいは害を与えるということがあるのではないかということですが、普遍性を探っていくと、「人間の歴史の目的」とか「幸福の追求」といったことを考えるようになるかと思います。そして、この辺りを追求していくと、ニーチェにたどり着いてしまう。

     そして多くの人々が、ニヒリズムの克服を目指しましたが、おそらく有効な処方箋は見つかっていないのではないでしょうか。ただ現実的な対処法の一つに、佐藤様がご指摘のように、「大きな希望や期待を持つのではなく、日々の生活を送ること」に注目することを勧めているものもあります。これらは患者側の立場ですが、医療側から何かするべきことがあるでしょうか。

     もしかすると、お書きのように「医療の目的を踏まえた上で患者一人ひとりのゴールをきちんと設定し、納得してもらえるように説明する」が答えなのかもしれません。となると、「医療の目的」とは、「善い死を迎えさせること」(「善い死」という言葉の使用に同意いただいてはいませんが)で、「善い死」の定義は、医療側が主導権を握って決定しているように思えます。完全に患者の意思を無視するわけではないのでしょうが、そのように提案された「善い死」を患者が受け入れることこそ、幸福なのだといわんばかりですね。
     【延命と患者の利益】にも関連していますが、それが悪いと言っているわけではありません。私もそれがいいのではと薄々感じているのですが(かなりパターナリスティックな医療とも取れますが)、このような方針決定作業を正当化するには、臨床倫理面での医療環境をどのように変えていくことが必要でしょうか?

    • 2015年12月24日  回答者:佐藤恵子

      幸福とは何かという定義は、人それぞれで異なると思いますが、一般的には「苦痛がなく平穏に暮らせること」あたりであると思います。人の苦しみを緩和するのに役立つものを「役に立つ」と言うのは問題ないと思います。ただし、CT装置を途上国に差し上げたところで、迷惑なだけでしょうから、個別のもの・ことが「役に立つ」ためには場所や状況によるところが大きいですね。
      私は、医療は、人々が日々穏やかに生活し、旅立ってゆくのを手助けできればよいのではと思っています。医療がその人の「善き生」にどれほど貢献したのかは、人が冥土に着いた時に振り返ってみて「いい人生だったな」と思えれば、その人の生は「善い生」だったと言えるので、客観的にはわかりようがないのですが。私は「善い死」という表現はあまり使いませんが、その理由は、死そのものは善いも悪いもないように思うのと、死は生の最終場面であって生の中に含まれると思っているため、「善い死」という表現自体が座りの悪いものに思えること、そして、善い生かどうかは本人にしか判断できないこと、しかも本人の死に際もしくは亡くなったあとに振り返ったときにしかできないことだと思っている…あたりです。医療者の役割は、ある人が苦しみや不便を抱えていたら、それを医療の知識や技能などで緩和して、少しでもよい状態になるように介入して、その人が普通に生活するのを手助けする、という程度です。
      ただ、臨終期、死を迎える数日~数週間くらいの間を良い状態で過ごし、苦しみがない状態で旅立つことを表現するときには「善い死(を迎える)」という表現を使います。とくに呼吸が苦しかったり、強い痛みがあったりすると、患者さんはかなり苦しい思いをしますので、鎮静するなどの処置が必要で、「苦痛がなく穏やかに旅立つ」ようにするには、医療者が適切に手助けすることが必要です。したがって、たとえば高齢で多臓器不全のある患者さんが、回復不能な時点を過ぎて治療が患者さんに利益をもたらしていないところでは、医療者が「呼吸器などの延命治療はやめて、お見送りした方がよい」と判断して家族に提案し、合意していただくということが必要ではと思います。

  16. 2015年10月22日  回答者:匿名希望

    【科学や医療の限界】
     不確実性は分かりますが、限界というのはどうなんでしょう。佐藤様のまわりの研究者は、現実的に限界を意識して(あるいは限界を決めて)研究を進められておられるのでしょうか?
     つまり、技術的な限界を感じておられるのか、それとも倫理的にこれから先へは踏み込んではいけないと自主規制されておられるのか、という点です。

     具体的に申しますと、「がんは技術的に克服できない」とか、「脳移植は倫理的にしてはならない」とか、「老化の克服は研究対象としてはならない(これはどちらなんだろう?)」などですが、ここでの「限界」とはどのようなことをお示しなのでしょうか?

     単に、「不老不死は目指さない」という意味での「限界」だとしても、それは技術的という視点なのか、倫理的な視点なのか、各研究者はどのようにお考えなのかを知りたいところです。

    • 2015年12月24日  回答者:佐藤恵子

      医療者や医学研究者が何を目指しているかは、一人ひとりで違うかもしれませんので、聞いてみなくてはわかりませんが、私自身と、私のまわりの医療者・研究者と話をした限りにおいては、医療の目的は、身体の不便や不都合を本来の健常な状態に戻すことと定義していると思います。何をもって「本来の健常な」状態とするかも人によって幅がありますが、「マイナスの状態をゼロに戻す」ということです。
      研究者もさまざまな人がいるので、死体から人体パーツを寄せ集めて身体をつくろうとしたフランケンシュタイン博士のような人もいるかもしれませんし、不老不死をめざしているわけではないけれど、「細胞を活性化する」という研究をしている人が成功し、「細胞活性化装置」として実用化されて結果として不老不死を実現する装置ができたという場合もあるかもしれません。SFでは、不老不死のヒーローが活躍する物語も多々ありますが、死があってこそ生の美しさやありがたさを味わえることを考えると、仮に不老不死の技術があったとしても、使用しないということにしておくのが賢明な道のように思います。サイボーグ009(石ノ森章太郎)の島村ジョーは、悪の組織(ブラックゴースト)に改造されて加速装置を備えた不死身の身体になり、悪の組織と戦う者として自覚もしておりましたが、自分は人間なのか機械なのかという苦しみを抱える存在でした。他方、ブラックゴーストで人間改造を行ったのはギルモア博士という研究者で、博士の苦悩はあまり描かれてはいないのですが(物語の都合を考えれば当然ではあります)、「人間を改造できる力を持つ」ということは、それ自体が人間の持っている「自然に対する謙虚さ」という徳を失わせるのではと思います。そう考えると、人それぞれ、天地自然から与えられた寿命を生きることを旨として、医療は、穏やかに生きて旅立つために利用する、というのがよいのではないでしょうか。
      そして、「自然の条理から大きく逸脱することはしない」ということは、医療者や研究者が了解している必要はありますが、社会全体がなんとなく了解していて、社会が技術利用の限界を設定する、という仕組みにしておくのがよいと思っています。がんを克服する研究や老化の研究は容認できますが、人格を変えてしまうような脳まるごとの移植は社会としては容認しないことになるでしょう。それでも、記憶力低下を治療する目的などで、脳移植の研究をしたい人はいるでしょうから、しかるべきガバナンスのもとでどうぞということになると思います。
      というわけで、私は「再生医療人の行動基準」を作成した際、使命を「再生医療の研究や医療を通じて、人々の健康や安全、福利の維持・増進、公衆衛生の推進に貢献すること」とし、守るべき価値を①人間の細胞、生命や尊厳、それをとりまく環境を尊重する、②文化的・社会的価値を尊重し、再生医療の理念を尊重した活動を行う、③責任と能力を持ち、誠実に行動する、としました。行動基準は、CAPEのHP内の「幹細胞研究ってなんだ」の巻末に掲載しておりますので、ご覧いただければ幸いです。

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