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生命倫理の議論に意義はあるか

投稿者:オダジョ
2016年02月24日

生命倫理を勉強しています。
一つ引っかかることがあります。
生命倫理のさまざまな議論は、どこまで意義があるのかということです。

たとえば生命倫理の議論には、生まれてくる子供をできるだけ望ましい形質にするよう出生前の段階で介入すべきだ、等の過激なもの
があると思います。そういった過激なな議論を反駁しようとする議論もたくさんあると思います。 このような論戦は、時間はかかるかもしれないですがいつか決着がつくのかもしれません。議論の応酬を追い、自分も考えてみるというのはとてもエキサイティングだと私は思います。

しかし私は、こうした論戦に決着がつくことに果たして現実的に意義があるのかどうか疑問に感じてしまいます。というのも、さまざまな議論がある中でどの議論が正しいとされ、政策等に採用されるかや、もっと言えばどのような議論が「反駁すべきすもの」とみなされるのかは、実際には単に人々のムードで決まっているように感じられるのです。

もちろん、哲学者たちは議論の営みを決して気分のままにやっているのではなく、純粋に議論に穴があるから互いにそれを指摘し、代案を提出しつづけているのだと思います。

しかし人々が実際の生活で実践の根拠に採用する議論は、たんにその時のムードに都合のいいものに限られるように思えてしまうのです。例えば、冒頭で挙げた過激な議論などは、現時点ではいくらそれを支持する論証を積み上げたところで、人々の実践においては黙殺されてしまうというのが現実ではないでしょうか。

また実践の根拠としてそれに反対する議論を援用するとしても、「この過激な議論はダメだということにしておいたほうが居心地がいいからこの反論を採用しよう」という動機でそうしているのではないか、と思えてしまいます。 逆に人々のムードが変わって、現在の感覚では過激な議論が好まれるようになれば今度は、議論に穴があるにもかかわらず過激な議論を正しいものとして実践の根拠に採用しようとする、ということも考えられます。そうしたムードの中では、人々はその議論に対する反論を軽視するようになるのではないかと思います。

もし現実がそのようなものであるなら、純粋に論理的に妥当な議論を見つけようとする試みには、いったいどこまで意義があるのでしょうか。人々はだれもそのようなものを求めていないのかもしれないのではないですか。

結局生命倫理の議論の意義は、その時のムードに都合のいい議論を提供することにすぎず、様々な議論はつまみ食い的に利用され古くなれば捨てられるのがオチ、ということになってしまわないでしょうか。人々のムードを作り出すのは洗練された議論であり、そのような議論を見つけるのが生命倫理の議論の意義である、とも考えられるかもしれません。

しかし、ムードというのは理性的な議論によるよりも、人々の生活のなかでの感覚が醸成されてできていく部分が大きいものであるように思われるので、ムードづくりにおいて議論がどれだけの意義を持つかは疑問に感じられます。人々の感覚を言語化する意義がある、と
いうことになるんでしょうか。

混乱した文章になってしまったかもしれませんが、ご意見いただければ幸いです。

  1. 2016年02月24日  回答者:長尾式子

    興味深い質問をありがとうございます。

    議論して決着をつけることに意義があるのか。問題によっては終着する、着地点を設けることは必要だと思います。医療福祉関係のことに関しては。そうしないと、人の治療や療養等に支障がきたすので、今ある議論の中で終着点を設ける必要があると思います。

    たとえば、中絶の適応基準などはその一例です。中絶は今でも議論されていますが、ある一定の終着点を持っていますよね。臓器移植、脳死もそうだと思います。

    ただし、それで議論が決着したということができるのか?といわれたら、それはないでしょうね。なぜなら、正しい/善いと思っていた治療方法も、時が経つにつれて、正しいことが疑わしい/善いかもしれないがもっと善い方法がある治療法ができるからです。

    たとえば、法律にはなっていませんが、終末期の意思決定は現在、ガイドラインはありますが、現場で議論はする必要があります。終着点が取れることと、取れないことがあります。たとえ法律になったとしても、終着点となる場合と、決着せず、議論が継続することがあります。

    公衆衛生においてもしかりです。この政策でやっていても時が経てばその政策では問題がある、政策自体が疑わしくなる、、、といったこともあります。一度、体験して作成した政策だからと言って完璧であるわけがありません。

    たとえば、結核の予防接種政策がずっと続いていますが、その後議論されず30年以上そのままとなって、最近の結核の課題が浮上して政策の修正が必要になったとか、新しい予防接種の配分のこととかは、そうした事例になるように思います。

    ですから、着地点を迎えても、継続して議論することが必要だと思いますので、継続した議論、検討は必要、になると思います。

  2. 2016年02月24日  回答者:児玉聡

    ご質問ありがとうございます。

    生命倫理学の議論は机上の空論であり、実際の政策は別のところで決まっているというご指摘かと思います。

    それに対する一つの答えはこうです。生命倫理学の議論は哲学者だけがやっているわけではなく、法学者や医療関係者もやっているので、政府の委員会など、より合意形成に近いところでも議論は行なわれているように思います。

    また、哲学者の議論というのはしばしば一般に理解されるまで時間がかかりますので、長い目で見る必要もあるように思います。近年ではシンガーの動物解放論がその典型だろうと思います。それと同時に、重要な議論は積極的に社会に発信していくという取り組みも、とくに生命倫理学のような実践的な学問には求められているように思います。

    政策は雰囲気で決まるというのは研究者の責任放棄につながりかねないので、しっかりアンガジェすることが重要だと存じます。

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