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CAPEワークショップ・シンポジウム等

CAPEでは、世界中から多数の研究者を迎え、定期的にワークショップを開くとともに各種国際シンポジウム等を開催しています。複数のスピーカーを迎え、応用哲学・専門職倫理に関する最新の研究動向を研究者間で共有し、討論し、発展させることを目的に企画されました。CAPEワークショップは、CAPEレクチャーともに、外部にも公開しています。CAPEは研究者間の国際交流と共同研究、そして人材育成を推進してゆきます。

Practical Ethics Seminar

日時:2017年8月25日(金) 14:00-18:10
会場:文学部校舎地下1階 大会議室
会場地図http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/about/access/
使用言語:英語 (適宜通訳をいたします)

14:00-14:05 Opening Remarks
14:05-15:20 Ms Carissa Veliz (Oxford University), “The duty to protect one’s privacy and the ethics of encryption”
15:30-16:45 Dr Ryoji Sato (University of Tokyo), “Moral Significance of Consciousness and the Integrated Information Theory”
16:55-18:10 Dr Joshua Sheperd (Oxford University), “Disability and Well-Being: The Bad and the Neutral”

なお、本レクチャーは、上廣倫理財団の支援による日英大学交流プログラムの一環として実施されます。

Afree, Be Free! ――青山拓央『時間と自由意志』合評会(京都現代哲学コロキアムとの共催)

発表者:青山拓央(京都大学准教授)、千葉雅也(立命館大学准教授)、山口尚(京都大学非常勤講師)
日時:2017年8月5日(土)13:30-17:00
場所:キャンパスプラザ京都、第二会議室
参加費:200円(収集して会議室のレンタル代にあてます)

青山拓央氏の著書『時間と自由意志』(筑摩書房、2016年)の合評会を行なうことになりました。以下は、登壇者のひとりであり、オーガナイザーのひとりである山口尚による広報です。

青山拓央氏の『時間と自由意志』は、時間と自由が織り成す哲学的問題の考察を通じて、世界の根本的なあり方の解明を目指す。この本の中心的テーゼは、「自由/不自由 」という馴染みの区別の背後には、「無自由(afree)」と形容できる、より根底的な次元が存在する、というものである。そして――著者によれば――この無自由こそが世界の根本的なあり方なのである。『時間と自由意志』は、この点の解明に向かう途上で、さまざまな問題(例えば世界の分岐に関する問題、脳と自由をめぐる問題、人称性と自由の関係についての問題)に取り組み、そのつど独位の議論を展開する。自由意志について長年探究してきた私の感想は次である。実にエキサイティング! 合評会をせねばならない!

青山氏の哲学的考察は――今回の著書からも見てとられうるが――分析哲学的な議論を背景としながらも、他の思想的伝統ともクロスオーバーしうる指向を具えている。この合評 会では、分析哲学における自由意志論を専門とする山口がコメンテータのひとりを務めさせて頂くが、それだけでなく、現代フランス思想を専門とする千葉雅也氏にもご登壇頂ける機縁に恵まれた。千葉氏もまた伝統の枠に囚われない思索者であり、登壇者の間でどのような化学変化が生じるかについては予測できない。だがいずれにせよ、当日の議論の深まりに関しては、自信をもって「ご期待あれ!」と言いたい。

合評会のタイトルは私の独断で「Afree, Be Free!」とした。「エイフリー、ビーフリー」と読むわけだが、確定した意味をもつ表現ではない。そもそも文なのか、たんなる文字列なのかも判明でない。だが、自由であることと無自由との関係の理解を深めることこそが『時間と自由意志』から私が受け取った贈り物であるので、この事実への指示をこめて上記のタイトルを選ばせて頂いた。

当日の登壇順序などの予定は以下です。
1.オーガナイザーによる会の説明(13:30-13:40)
2.青山発表
3.山口発表
4.千葉発表
5.登壇者相互の討論(15:20頃-15:50頃)
6.フロアを交えての討論(16:00頃-17:00)

発表タイトルと要旨

青山拓央:「自由」の新たな見取り図
博士論文をもとにした拙著より、中核にあたる部分をお話しします。本のカバーの見返し部分にちょうど良い要約があるので、まずそちらを引用します。
「さまざまな歴史の可能性は、過去から未来に向かって枝が分岐していく樹形図として、しばしば描かれる。人間は決断をすることにより、このたくさんの可能性の枝からただ一つの現実の枝を選択しているように見える。でも、それは本当だろうか。こうした思考を突き詰めたとき、決断によって枝が選ばれる瞬間を樹形図上のどこにも位置づけることができない、という意外な困難に直面する。それが「分岐問題」だ――。本書では、これまで自由意志/決定論の対立として論じられてきた難問を、自由とは何かという議論からいったん離れ、「分岐問題」の枠組みのもとで考察しなおす。」
引用文の最後に、「自由とは何かという議論からいったん離れ」とありますが、今回の発表では、一人称 /二人称/三人称(脱人称)の三極から成る「自由」の新たな見取り図を提示します(同著第四章に対応)。そこでの議論が正しければ、脳が人間の行為を「決める」――人間は脳に操作された「不自由」な存在である――といった図式が正確でないことや、両立論的自由/自由意志(非両立論的自由)/不自由の三者択一が必須でないことが分かるでしょう(発表時間が許せば、この三者の真の対立項である「無自由(afree)」についてもお話しします)。

山口尚:芸術家と道徳家――『時間と自由意志』考
自由意志は〈ひと〉の次元に本来的な場をもつ何かだ、というのが青山拓央さんの『時間と自由意志』(筑摩書房、2016年)の重要な指摘のひとつである。私はこの考えに共感しており、これを掘り下げることに強い関心を有している。本発表では、青山さんが同書で提示する図表、すなわち自由と不自由に関する「人称三角形」(と私が呼びたい図表)の事象的な妥当性や意義を考察し、ひとと自由意志の関係の理解を深めることを目指す。
とりわけ論じたい一点に触れることで発表要旨に代える。
青山さんの考えによれば、「両立論的」自由は一人称性と、「リバタリアニズム的な」自由は二人称性と、そして不自由は三人称性と密接に関連している。いや、より厳密に言えば、これらはそれぞれ静的に対応しているわけでなく、むしろ(上記の原初的対応のもとで)両立論的自由‐リバタリアニズム的自由‐不自由といういわば〈自由様相の三幅対〉が具える動性が、一人称‐二人称‐三人称という〈ひと〉に関わる鼎的な関係のダイナミズムで解明されうる、というのが青山さんの考えである。例えば――青山さんが実際に行っている説明だが――本来的には二人称的なリバタリアニズム的自由がいわば一人称化されるときに、自己を「不可視的な〈起点〉生を伴う自由意志の主体」(同書201頁)と捉 える見方が生じたりする。このように、青山さんによれば、私たちが自由や不自由について考えること(そしてときに悩むこと)は、人称三角形の内部を運動することなのである。
これは独特の議論であり、得るところも決して少なくない。仮に『時間と自由意志』におけるこうした議論に対して不満があるとすれば、そこでの議論が高い抽象度でもって展開されており、《そうした自由や不自由が生の具体的な場面でどう実現されているか》があまり語られていない点である。いや、率直に言えば、私がこの点を気にしているのである。それゆえ本発表では青山さんの指摘をより具体的な視点から肉づけすることを試みる。すなわち、一人称‐二人称‐三人称という〈ひと〉の次元の抽象的な相に加えて、「芸術家」や「道徳家」といった〈ひと〉の次元のより具体的な相を考慮しつつ、自由の理解を深めたい、ということである。そこでは、創造的自由や道徳的自由などが語られ 、それらの内実に光があてられることになるだろう。

千葉雅也:他者、イメージ、偶然性――青山拓央『時間と自由意志』について
青山拓央『時間と自由意志』では、いわゆる非両立的自由としての自由意志を、他者の存在と偶然性とが織りなす構造体として捉えている。そこでは、「他者の内面は不可視である」ということが議論の中核である。他者の内面には、行為の見えない理由が想定される。そのように、理由を隠している存在としての他者が「私に移入される」ことが、私の自由意志(というイリュージョン)を生むのである。これは、私なりに言い換えれば、「理由の隠れのアウトソーシング」というような論法である。今回のコメンタリーでは、この論法が、フロイト-ラカンの精神分析における無意識の生成機序の説明に近いことを指摘した上で、精神分析のその文脈において重要な「イメージ」の概念を青山の議論にも導 入し(青山はこの概念を用いていない)、理由(および因果)とイメージの関係についてひとつの構図を提示する(ラカンに影響を受けたピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」というプロジェクトにも触れることになるだろう)。そして、その構図において偶然性概念の意味を改めて問うことになる——偶然性とイメージはいかに関わるのか。

哲学対話×シネマ『60万回のトライ』

大阪朝鮮高級学校ラグビー部への3年間の密着取材をもとに制作されたドキュメンタリー映画『60万回のトライ』を上映後、朴思柔監督・朴敦史監督を交えて、Q & A と哲学対話を行います。

Potentiality of Southeast Asian Philosophy II

Program:

16:20-16:25 Introduction Prof. Taro Mochizuki (Osaka University)
16:25-16:40 Talk 1 Prof. Taro Mochizuki “The Japan-ASEAN Global Philosophical Research Exchange Laboratory”
16:40-17:10 Talk 2 Asst.Prof. Kasem Phenpinant (Chulalongkorn University) “The (De-) Construction of Southeast Asian Mind”
17:10-17:20 [Break]
17:20-17:50 Talk 3 Prof. Srinivas Kunchapudi (Pondicherry University) “The Structural Depths of Indian Philosophy”
17:50-18:30 Round table discussion
Chair: Prof. Taro Mochizuki
Discussants: Profs. Yasuo Deguchi, Kasem Phenpinant, and Srinivas Kunchapudi.

Potentiality of Southeast Asian Philosophy I

Program:
15:00-15:05 Introduction: Prof. Taro Mochizuki (Osaka University)
15:05-15:25 Talk 1: Prof. Yasuo Deguchi (Kyoto University) “Potentiality of Southeast Asian philosophy”
15:25-15:55 Talk 2: Prof. Sun Tan  (Yangon University) “Myanmar Philosophy and the Kyoto School”
15:55-16:05 [Break]
16:05-16:25 Talk 3: Prof. Shimizu Hiromu (Kyoto University) “East Meets West at a Peripheral Contact Zone: Kidlat Tahimik, a film director and art activist’s deconstruction of self through association with indio-genius Ifugao /guru/ (sage)”
16:25-16:45 Talk 4: Prof. Jay Garfield “How to Fight Eurocentrism in Philosophy”
16:45-17:30 Round table discussion
Chair: Prof. Taro Mochizuki
Discussants: Profs. Yasuo Deguchi, Sun Tan, Hiromu Shimizu, and Jay Garfield.
Acknowledgement:
This workshop is supported by a Grant-in-Aid for Scientific Research (B), JSPS: Dialetheism and Asian Philosophy: Construction of international research basis for Analytic Asian Philosophy (16H03344).

ジョイントセミナー Prof. Piet Hut &Dr. Yuko Ishihara

Prof. Piet Hut (Institute for Advanced Study, Princeton)

Title:
YHouse: a research and outreach center in Manhattan for the study of consciousness.

Abstract:
I will give a brief review of our plans to establish a new center in Manhattan, which will combine academic studies broady with philosophy, art, design and technology. The main focus is on consciousness, in all its forms, from intelligence to self-awareness to cognition in general. To capture all of those we like to use the umbrella term “awareness”.

In the next ten years we will learn more about the mind-body problem, on a factual technical level, than humanity has learned ever since we developed language and rational thought. This poses two urgent problems: first, to synthesize all this new knowledge, and second, to let that integrated knowledge ripen into new forms of wisdom, sorely needed for our survival.

Our solution to the first problem is to take a long view, in three parts: past, present and future. We will trace awareness from its biological roots, four billion years ago; through its cultural roots, the origins of human civilization and its ongoing transformations; to its technological roots, in AI and robots, that are being developed right now, in the present and near future.

Our solution to the second problem is to reflect on this long view, using philosophy, in a broad sense of the word. Our aim is to reconceptualize the whole field of awareness or cognition, by reflecting on its various manifestations in nature, culture, and technology.

Dr. Yuko Ishihara (Tokyo Institute of Technology, Earth-Life Science Institute)

Title:
Consciousness is absolutely no-thing: On Nishida’s transformation of transcendental philosophy

Abstract:
Consciousness or awareness is a subject that is studied in various disciplines today including psychology, neuroscience and cognitive science. What all these empirical studies have in common is that it takes consciousness to be another thing in the world that can be observed and measured objectively. While such approach undoubtedly sheds light on certain aspects of consciousness, it cannot provide the whole picture. This is because consciousness is not just an object in the world but a subject for the world. One of the philosophical traditions that takes this idea seriously is called transcendental philosophy. Put in the language of transcendental philosophy, consciousness is the ultimate condition of possibility for our experience of the world. In this talk, I want to explore what the nature of such consciousness might look like by drawing on the philosophy of Nishida Kitaro. I will first present my interpretation of Nishida as a transcendental philosopher and then expand on the ways in which Nishida’s philosophy transforms certain aspects of traditional transcendental philosophy since Kant. In particular, I will focus on how Nishida’s notion of “the place of absolute nothingness” provides an understanding of consciousness neither as an object nor a subject, but rather, as absolutely no-thing.

対談 ポスト3.11の文学と道元思想―ルース・オゼキを囲んで(Dōgen and A Tale for the Time Being: An Interview with Ruth Ozeki)

Description of the event:
Ruth Ozeki is a novelist, filmmaker, professor of Smith College, and soto Zen priest. Her major works include My Year of Meats (1998), The Face: A Time Code (2006) and A Tale for Time Being (2013) that was shortlisted for the Man Booker Prize. Interviewers are Jay Garfield (philosopher, professor of Smith College, Harvard University, and Kyoto University) and Kyoko Yoshida (scholar of American Literature, Professor of Ritsumeikan University). The interview is chaired by Yasuo Deguchi (philosopher, professor of Kyoto University).

The workshop is organized within a scheme of Topic-setting program to Advance Cutting-Edge Humanities and Social Sciences (Global Initiatives), JSPS.

For any inquiry, please contact Takuro Onishi (research assistant) at takuro.onishi@gmail.com

ワークショップ Dr. Kasaki & Dr. Szmuc

プログラム:
16:00–17:30: Damian Szmuc “Paraconsistent logics, Meta-paraconsistent logics and beyond”
17:30–17:45: Break
17:45–19:15: Masashi Kasaki “How Many Cartesian Skepticisms?”

概要:
Szmuc:
This paper discusses paraconsistent logics, paracomplete logics, connexive logics and logics of formal inconsistency which deserve to be called that way not because of the properties they exhibit at the inferential level, but at the meta-inferential level. To achieve this goal, we use the framework of abstract consequence relations, due to Blok and Jonson. In doing so, we draw some connections between many-valued non-classical logics (as conceived by Bochvar, Hallden, Da Costa, Priest, Kleene, Dunn and
Belnap), on the one hand, and q-matrices and p-matrices (as conceived by Malinowski and Frankowski), on the other. This brings the opportunity to talk about what relates logical many-valuedness and inferential many-valuedness (as conceived by Wansing and Shramko). Finally, it also suggests the reasonability of asking, yet again, what exactly a logical system is.

Kasaki:
Cartesian skepticism appeals to a skeptical hypothesis and makes a case for the claim that S does not know that the skeptical hypothesis is false. The claim, then, constitutes an important premise of the argument for the skeptical conclusion that S does not know most, if not all, of ordinary empirical propositions. Some argues that there are two radically different versions of Cartesian skepticism, depending on what skeptical hypothesis is at stake. One version of Cartesian skepticism invokes the brain in a vat
hypothesis or the evil genius hypothesis, and the other version does the dreaming hypothesis. There are several ways of demarcating these two kinds of skeptical hypotheses. First, unlike the brain in a vat hypothesis and the evil genius hypothesis, the dreaming hypothesis is compatible with the truth of ordinary empirical propositions. Second, while the possibilities envisioned in the brain in a vat hypothesis and the evil genius hypothesis are esoteric and far-fetched, those in the dreaming hypothesis are not. Third, it is even easier to establish as a genuine metaphysical possibility the dreaming hypothesis than the brain in a vat hypothesis or the evil
genius hypothesis.

Each of the three ways of demarcating the two kings of skeptical hypotheses entails that certain solutions to the skepticism with the brain in a vat hypothesis or the evil genius hypothesis won’t work for the skepticism with the dreaming hypothesis. If the first way is correct, the denial of closure cannot be marshalled against the skepticism with the dreaming hypothesis. If the second way is correct, the safety-based response to the skepticism with the brain in a vat hypothesis or the evil genius hypothesis does not fare well with the skepticism with the dreaming hypothesis. And yet, if the third way is correct, it is difficult to dispel the dreaming hypothesis as metaphysically impossible.

In this paper, I will argue that the three ways of differentiating between the two kinds of skeptical hypotheses are not well-grounded. Notice that even the brain in a vat hypothesis is compatible with, or even strongly, cannot contradict certain ordinary empirical propositions, such as there are computers, there are scientists, there are brains, and so on. On the other hand, the dreaming hypothesis includes some true ordinary empirical propositions.
Once the brain in a vat hypothesis is set up so as to include little true ordinary propositions, there is no reason to differentiate between the brain in a vat hypothesis and the dreaming hypothesis, and hence the first way fails. The same can be said of the relationship between the evil genius hypothesis and the dreaming hypothesis. Indeed, if the dreaming hypothesis includes less true ordinary propositions, then the possible worlds in which it is true are more distant from the actual world. Thus, the second way also fails. The same consideration is advanced against the third way. If my arguments are correct, one needs no distinct response to the skepticism with the dreaming
hypothesis. Good news!

「人と動物の倫理研究会」第4回研究会

演題:純肉(培養肉)の技術と思想

概要:新興国を中心とする人口増と肉食化により食糧資源が逼迫することが以前より懸念されていたが、特に過去10年においては食糧価格の不安定な騰落が始まり、3年前から日本の総合商社が中国資本に対する「買い負け」を報告するなど懸念が具現化している。
特に食肉生産は大量の資源を消費するため代替物が求められているが、大豆肉や昆虫食は食材として難があり普及していない。その中で動物の筋肉細胞を純粋に培養することで、肉そのものをわずかな資源で作る「純肉(培養肉)」が提唱されている。
概念自体は19世紀から知られているが、筋肉細胞の培養にかかるコストが非常に高く、現実的でなかった。しかし近年の再生医療や生体組織工学の発展により、価格が通常の食肉価格まで下げられる道筋が示され、ベンチャー企業が立ち上がるなど再び注目されている。実現性が見えてきたことにより、宗教家やベジタリアン、畜産業者や食品産業界でも議論が始まっている。
講演では、純肉を巡る技術と議論の動向について紹介する。

<発起人>
京都大学文学研究科准教授 伊勢田 哲治
京都大学文学研究科准教授 児玉 聡
長野工業高等専門学校一般科准教授 鬼頭 葉子

CAPE動物倫理プロジェクトについて http://www.cape.bun.kyoto-u.ac.jp/project/project10/

<連絡先>
e-mail: kodama.satoshi.4v@kyoto-u.ac.jp(児玉)

哲学カフェ「どうして我々は2次元キャラクターに恋したり、フィクションに感動できたりするのか」

講師からのメッセージ

「我々は映画やアニメ、小説などで感動の涙を流すこともありますし、それは当たり前のことのように思えます。それどころか、フィクションの登場人物に恋をする人もいて、ネット上では本気と冗談が入り混じりながらも、「○○は俺の嫁!」という発言が沢山見られます。しかしよくよく考えるとこれは不思議なことです。」

「どうして我々は単なる絵やお話の中の人物に、恋をしたり感動したりできるのでしょうか。そもそも存在しない架空のキャラクターに恋をすることなんて、ありえるのでしょうか。一緒に考えていきましょう。」

「近年のエンターテイメント分野での技術的な進歩はいわゆるヴァーチャルとリアルの世界の境界を曖昧にしています。初音ミクやシオカラーズのようなヴァーチャルアイドルのライブは盛況を見せていますし、VRのホラーゲームは現実に生きる我々に強烈なトラウマを刻むようになりました。こうした状況は、そもそも現実と非現実とは何なのかという問題を、あらためて突きつけてきます。」

「今回のテーマ(どうして我々は2次元キャラクターに恋したり、フィクションに感動できたりするのか)は少しトリッキーに感じるかもしれませんが、「あるもの/あらぬもの」と我々の「心・魂」の関係についての、伝統的な哲学的問題であるとも言えます。慣れ親しんだ現代文化を切り口に、軽快に哲学の重要な問題を考えてみましょう。」

事前申込なしに当日ご参加くださることもできます。準備の都合上、下記のいずれかに予約してくだされば助かります。よろしくお願いします。
京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センター(CAPE)事務局
cape-seminar@bun.kyoto-u.ac.jp
探Q複数の視点で考えるカフェ(菊地建至)
kiku.yuukou@gmail.com

□上記散会後、同会場で以下の催し(ゲストによるレクチャーと対話・哲学カフェ)があります。是非、引き続きご参加ください。

「四年後うちの学生はどこに向かって卒業していくのか」(仮題)(シリーズ「グローバル人材を考える」第三回)、探Q複数の視点で考えるカフェ@紫明会館(京都市)

ゲストからのメッセージ
「多くの大学が「グローバルな人材」の育成を目標として掲げています。私自身も四月からそのような教育に携わることになっています。ところで「グローバルな人材」ってどういう人物なのでしょうか。一つ言えるのは、毎月パスポートにスタンプが増えていく人とは限らないということです。」

「さまざまな人材が担っていくべき、さまざまな役割や持ち場というものがあるのではないでしょうか。持続可能性やロボット技術といった分野を具体的な話題としつつ、大学教育という観点からみなさんと討論ができればと思います。」

上記メッセージの補足
神崎さんはこの4月に開設される南山大学国際教養学部(2017年4月〜)で学生とかかわられます。「グローバル・スタディーズとサステイナビリティ・スタディーズを二つの柱に学修を構成し、国や地域の枠を超え、多様な価値観を重んじる国際教養学教育を実施します。」南山大学HPから引用 http://www.nanzan-u.ac.jp/Menu/news/2016/1607_kokusai.html

★問い合わせ・申込は、直接会場の電話075-411-4970(特定非営利活動法人・紫明倶楽部)もしくはメールアドレスqualityoflife@shimei.club(特定非営利活動法人・紫明倶楽部)に申し込んでください。あるいは、下記メールアドレス(探Q複数の視点で考えるカフェ)に連絡くださっても、OKです。kiku.yuukou@gmail.com (探Q複数の視点で考えるカフェ、菊地建至)

公開講演会「生命倫理と人生の意味」

ヨハネスブルグ大学のサディアス・メッツ教授をお招きして、下記の要領で公開講演会を行ないますので、ぜひご参加ください。メッツ氏は、『Meaning in Life』(2013 Oxford University Press)によって「人生の意味の哲学」の分野の第一人者と目されている研究者です。「生命倫理と生命の意味」という新しいテーマをめぐって講演と討議を行ないます。

Thaddeus Metz “Meaning in Life as a Bioethical Value”
Masahiro Morioka “Commentary: From the Viewpoint of Philosophy of Life”
Free discussion

主催:科学研究費基盤(B)「人生の意味」に関する分析実存主義的研究と応用倫理学への実装(北海道大学 蔵田伸雄)

哲学カフェ「何のために生きるのか」

講師からのメッセージ
「哲学や心理学で「人生の意味とは何か」という括られ方をすることの多いテーマですが、私には「何のために生きるのか」の方がしっくり来ます。私はたんに生きるために生きているのではなく、それ以上の何かを求めて生きているように思える。その「何か」とは何だろうか。少し回りくどい言い方をすると、こういう問いを掲げているつもりです。」

「あるいはこうもいいかえることができます。私は自分が求めているものをまだ得ていないだけでなく、そもそも自分が何を求めているのかすら、よくわかっていないのではないか。私はこれまで、20世紀の哲学者マルティン・ハイデガーの研究をしてきました。私が彼から学んだ最大のことは、人間というのは、いま述べたような二重の意味で「欠けている」存在だということです。この「欠乏」にどうにかして対処しなければならないというところに、人間の人間たるゆえんはあるというのです。」

「とはいえ、タイトルの問いはどのように受け取っていただいても構いません。少し重たいテーマのようですが、だからこそこの機会に、(私のも含め)なるべく多くの視点から、皆さんと意見を出し合えればと願っています。」

事前申込なしに当日ご参加くださることもできます。準備の都合上、下記のいずれかに予約してくだされば助かります。よろしくお願いします。

京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センター(CAPE)事務局
cape-seminar@bun.kyoto-u.ac.jp

探Q複数の視点で考えるカフェ(菊地建至)
kiku.yuukou@gmail.com

哲学カフェ「肉食は悪いことなのか」

プログラム
13:00-13:10 「哲学カフェ」ガイド、会場の説明等【菊地】
13:10-14:05 「肉食は悪いことなのか」前半【呉羽】
14:05-14:15   休憩
14:15-15:00 「肉食は悪いことなのか」後半【呉羽、菊地】
司会 菊地建至(金沢医科大学/ 探Q複数の視点で考えるカフェ)

講師からのメッセージ
「肉食に関する倫理学の問題について、参加者の皆さんと議論します。動物をどう扱っているかは社会が道徳的かどうかの試金石だと言われます。しかし、動物の肉を食べるという、多くの人々が自然だと思っている行為が問題視されるとすれば、どうでしょうか。動物倫理学の基本的な考え方を紹介し、また宮沢賢治の小説(「ビジテリアン大祭」)や藤子・F・不二雄の漫画(「ミノタウロスの皿」)を題材に取り上げて一緒に考えてもらいます。」

「取り上げる漫画作品はカニバリズムをテーマにしたややショッキングな内容なのでご承知おきください。なお、屠殺現場などの画像や動画は使用しません。」

事前申込なしに当日ご参加くださることもできます。準備の都合上、下記のいずれかに予約してくだされば助かります。よろしくお願いします。

京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センター(CAPE)事務局
cape-seminar@bun.kyoto-u.ac.jp

探Q複数の視点で考えるカフェ(菊地建至)
kiku.yuukou@gmail.com

「人と動物の倫理研究会」第3回研究会

講演 「エスニシティという視点から動物の生命について考える -台湾における動物供犠と狩猟」
国立民族学博物館 教授  野林 厚志

研究発表 「菜食主義批判の検討−日本人の植物観から考える」
関西大学非常勤講師 鶴田 尚美

<発起人>
京都大学文学研究科准教授 伊勢田 哲治
京都大学文学研究科准教授 児玉 聡
長野工業高等専門学校一般科准教授 鬼頭 葉子

<連絡先>
e-mail: y_kito@nagano-nct.ac.jp(鬼頭)

非古典メレオロジー研究会

発表者:藤川直也(首都大学東京 准教授)
発表タイトル:Plurality in Fictional Discourses
要旨:
A fiction may describe a plurality without specifying the `dossier’ of each of its individual (atomic) constituents enough to distinguish them from each other. In particular, it may be the case that a fiction gives the exactly same characterization to each of the constituents of a plurality, as is described in Everett (2013). For example, `we are told in Tess of the d’Urbervilles that 16 policemen came to arrest Tess but we are not given any more specific descriptions of any of these policemen’ (Everett, 2013, p. 191). Let us call a plural fictional character without specification of each of its constituents a plurality with indiscernible constituents. In this paper, I develop a theory of pluralities with indiscernible constituents, based on nuclear Meinongianism (cf. Parsons, 1980) and non-idempotent mereology (cf. Cotnoir, 2015). Nuclear Meinongianism of fictional characters claims that a fictional character in a fictional story S is a nonexistent object x which has all nuclear properties x is characterized as having by S. According to non-idempotent mereology, a mereological sum can have one and the same object as its two or more different parts. Combining these two theories, I propose that `16 policemen’ in Tess of d’Urbervilles refers to a mereological sum which has one and the same nonexistent policeman as its 16 different parts.

References
Cotnoir, A. (2015). `Abelian Mereology’, Logic and Logical Philosophy, A. C. Varzi and R. Gruszczynski (eds.) Special Issue: Mereology and Beyond, 1-19.
Everett, A. (2013). The Nonexistent, Oxford: Oxford University Press
Parsons, T. (1980). Nonexistent Objects, New Haven: Yale University Press.

「公正研究推進の役割分担について考える」講演会・検討会

第一部 講演会 (14:00~15:30)
講演 市川家國(信州大学特任教授、CITI Japanプロジェクト副事業統括)
講演タイトル「日本発の研究不正は今後も続く:原因と対策」
コメンテーター 樫則章(大阪歯科大教授) (もう一名調整中)

第二部 討論会(15:45~17:00)
「公正研究推進のために誰が何をやるべきか—研究機関・政府機関・学会・その他」
ファシリテーター:伊勢田哲治(京都大学文学研究科)
第一部の登壇者の方たちを中心に、役割分担について会場全体で議論をしたいと思います。

企画趣旨
公正研究の推進は、大学などの研究機関だけでなく、文部科学省などの政府機関、各種学会、その他の団体など、さまざまなアクターが協力して行う必要があります。しかし、これらのアクターの誰がどういう役割を担うべきなのか、また、その間の連携はどうするのかということについて国内ではきちんとした議論がなされてこなかったというのが現状です。今回の講演会では、これまでCITI JAPANプロジェクトを率いてこられ、またその活動を発展させる形で一般財団法人 公正研究推進協会(APRIN: Association for the Promotion of Research INtegrity)を立ち上げられた市川家國先生をお招きし、この問題についての市川先生のお考えを伺うとともに、よりよい役割分担のために何をするべきなのかをともに議論していきたいと考えます。

主催 挑戦的萌芽研究「研究公正の理念の学際的検討と日本的な研究倫理の構築」研究プロジェクト(代表 水谷雅彦) ・京都大学文学研究科応用哲学倫理学教育研究センター(CAPE)
後援 京都大学研究推進部研究推進課

哲学カフェ「ひとはなぜ笑うのか—ユーモアが明かす人間の本性」

プログラム
14:30 – 15:10  佐金武 (大阪市立大学・哲学・講師)「ユーモアはなぜ哲学の問題になるのか」
15:10 – 15:40  高野保男 (大阪市立大学・哲学・修士2 年)「 絶対に笑ってはいけない」を考える
15:40 – 15:50  休憩
15:50 – 16:20  大畑浩志 (大阪市立大学・哲学・修士2 年)「カーニヴァル〈祝祭〉の笑い」
16:20 – 16:50  小原漱斗 (大阪市立大学・心理学・修士2 年)「心理学とユーモアの価値」
16:50 – 17:00 ラップアップ
(司会: 菊地建至(金沢医科大学/探Q 複数の視点で考えるカフェ))

CAPE International Workshop: Metaphysical Grounding and Fundamentality

This workshop aims to explore recent themes in the metaphysics of grounding and fundamentality. We would like to discuss issues pertaining to the nature and utility of the notions of metaphysical grounding and fundamentality, as well as related topics such as reduction, existence, truthmaking, material constitution, and the ontology of time.

The 6th Asia-Pacific Conference on Philosophy of Science

Schedule

September 10

10:00-10:15
Opening Address: Tetsuji Iseda (Kyoto University, Japan)

Session 1 10:15- 11:55
Chair: Tetsuji Iseda

10:15- 11: 00
1 PARK, Ilho (Chonbuk National University, Korea)
Epistemic Optimism: Credences and Accuracy

11:10- 11:55
2 Takehiro Aiba(Hokkaido University, Japan)
Does effect size really help frequentism?

Lunch

Session 2 13:30-15:10
Chair: Shahidan Radiman
13:30- 14:15
3 Hsiao-Fan Yeh (National Chung Cheng University, Taiwan)
Interactivities in the Internal Contexts of Mechanisms

14:25-15:10
4 Xiang Huang (Fudan University, China)
Understanding the Cognitive Modes of Scientific Practices—A Review on Marx Wartofsky’s Historical Epistemology

break

Session 3 15:30-18:05
Chair: Wei Wang
15:30 -16:15
5 RHEE, Young E (Kangwon National University, Korea)
Is the Self an Illusion?

16:25-17:10
6 Hidenori Suzuki (Nagoya University, Japan)
Management and Authorship

17:20-18:05
7 Mohammad Alinor Abdul Kadir (Academy of Civilizational Studies, Malaysia)
Metaphysical Concept of Logic

Dinner

September 11

Session 4 10:00- 11:40
Chair: Jun Otsuka
10:00- 10: 45
8 Shahidan Radiman (Universiti Kebangsaan Malaysia, Malaysia)
Some thoughts on science , universality and guiding principles

10:55-11:40
9 Insok Ko (Inha University, Korea)
Patiency as an Essential Part of Agency

Lunch
Session 5 13:00- 14:40
Chair: RHEE, Young E
13:00-13:45
10 Wei Wang (Tsinghua University, China)
Methodological individualism and collectivism in the social sciences

13:55- 14:40
11 Hsien-I Chiu* and Hsiang-Ke Chao (National Tsing Hua University, Taiwan) (*presenter)
Confirmation of Climate Models

Session 6 15:00-16:40
Chair: Mohammad Alinor Abdul Kadir
15:00-15:45
12 Min OuYang (Department of Philosophy, Chung-Cheng University, Taiwan)
Anti-realism and the Species Problem

15:55-16:40
13 Jun Otsuka (Graduate School of Humanities, Kobe University, Japan)
A model-theoretic approach to the species problem

16:40-16:50
Closing note: Tetsuji Iseda

End of the conference

CAPEワークショップ「Practical Ethics Seminar」

プログラム:
13:30-14:20 Dr. Eisuke Nakazawa and Dr. Keiichiro Yamamoto et al., “Ethics of Decoded Neurofeedback in Clinical Research, Treatment, and Moral Enhancement”
14:30-16:00 Dr Hannah Maslen, “Consumer Enhancement Devices and Regulatory Challenges”
16:10-17:40 Dr Jonathan Pugh, “Justifications for Non-Consensual Medical Intervention: From Infectious Disease Control to Criminal Rehabilitation”

CAPEワークショップ「What is Blame, and Why it Matters — Philosophy of Free Will, Moral Responsibility, and Blame」

Program:
DAY 1: Thursday, August 4th, 2016
14:45-15:30 Sho Yamaguchi: Consideration on Frankfurt Examples
15:30-15:45 Brief Discussion on Yamaguchi’s Lecture
15:45-16:00 Break
16:00-17:15 Justin Coates: Introduction to Philosophy of Blame
17:15-17:30 Brief Discussion on Coates’ Lecture
17:30-18:00 General Discussion

DAY 2: Friday, August 5th, 2016
14:45-15:30 Sho Yamaguchi: Spinoza’s Ethics without Blame and Praise
15:30-15:45 Brief Discussion on Yamaguchi’s Lecture
15:45-16:00 Break
16:00-17:15 Justin Coates: What Is Blame? Why Does It Matter?
17:15-17:30 Brief Discussion on Coates’ Lecture
17:30-18:00 General Discussion

オーガナイザーによる宣伝:
自由意志と道徳的責任の問題は——粗っぽい言い方だが——哲学者および倫理学者が長らく気にしてきた事柄です。とはいえ、近年のいわゆる「自由意志と道徳的責任の哲学」においては、注目すべき関心の変化が存します。それは、「非難(blame)」という現象への関心が増大する、という変化です。だがここで言う「非難」とは何か、そしてなぜそれは問題なのか。こうした基本的な問いへ答えることをひとつの目標として、本ワークショップでは、近年出版された非難の哲学の優れたアンソロジー(*)の編者のひとりであるジャスティン・コーツ氏(ヒューストン大学・Assistant Professor)が、非難の哲学に関する入門的な講義を行なうと同時に、氏自身の立場も展開します。またオーガナイザーである山口尚(京都大学・非常勤講師)も自由意志・道徳的責任・非難をめぐる哲学的問題、すなわちいわゆるフランクファート事例に関する問題とスピノザの『エチカ』に関する問題を論じます。入門に触れたい方も、踏み込んだ論点を考察したい方も、奮ってご参加ください。なお、本ワークショップは、発表、質疑応答ともすべて英語で行われます。
(*) Coates, D. Justin, and Neal Tognazzini (eds.), 2013. Blame: Its Nature and Norms, Oxford, New York: Oxford University Press.

Abstracts:

Introduction to Philosophy of Blame: What Blame Is, and Why It Matters
D. Justin Coates

When is it appropriate to blame someone for their conduct or character? To answer this question, we must think about the metaphysics of human agency. This is precisely what the traditional free will and moral responsibility debates have done. However, that’s not enough. We must also think about the details of our moral practices. Before we can know when it is appropriate to blame, it is essential that we understand what blame is and what its role is in our lives. In “What Blame Is, and Why It Matters,” I will focus on these essential details. As I understand it, blame can be manifested in a wide range of human responses to faulty or otherwise objectionable conduct. So it does no good to identify blame with a particular category of judgments, emotions, or overt actions. Instead, what separates blame from other responses to wrongdoing is that blaming responses serve to condemn how wrongdoers have exercised their agency. And it is this condemnatory function of blame allows it to play such an important role in regulating our lives together.

 

Consideration on Frankfurt Examples
Sho Yamaguchi

One of the most important questions in philosophy of free will and determinism is whether the Principle of Alternative Possibilities (PAP in short) is true or not. PAP says that an agent is morally responsible for his doing A only if he could have done otherwise. Famously, several philosophers including Harry Frankfurt tried to invent a clever counterexample of PAP, while other several philosophers opposed it and tried to prove that the alleged counterexample fail to rebut at least some version of PAP. There is not yet an established consensus. Recently, Derk Pereboom and David Hunt independently introduced a twist to the debate. According to them, their so-called buffer cases prove that the existence of alternative possibilities is not relevant to moral responsibility at all. My view is that, although their cases are apt to reject some version of PAP, there may yet be some versions of PAP which resist these cases. Particularly, I would like to suggest that, while Pereboom and Hunt succeed in negating a stronger type of PAP, there is a weaker type of PAP to which their buffer cases present no counterexamples.

 

Spinoza’s Ethics without Blame and Praise
Sho Yamaguchi

I am always puzzled when I read Spinoza’s Ethics, because it seems to me that what the author is doing in that book implies a fundamental absurdity. In this paper, I explain what it is that I find to be fundamentally absurd in Ethics and consider if such a kind of absurdity ruins Spinoza’s central purpose in writing the book in question.
I would like to explain in what respect my consideration of this matter could be relevant to our current interest. In the on-going philosophical controversy about free will, several authors explore the possibility of ethical life without metaphysical freedom (Honderich 1993, Smilansky 2000, Pereboom 2001, Waller 2011). For, due to an enormous growth in the free-will skeptical discourse based on recent scientific discoveries (cf. a social psychologist Daniel Wegner’s well-known statement that conscious will is an illusion), the need of a conception of ethics least dependent on the existence of free will is increasing. Nevertheless, any attempt of developing the idea of ethics without free will tends to be absurd, as we will see later. One of the most urgent matters in philosophy of free will is thus, I suggest, to understand accurately why ‘ethics without free will’ would sound so absurd. My consideration of Spinoza’s Ethics in this paper is meant to contribute to deepening our understanding of the difficulty in elaborating a conception of ethics devoid of metaphysical freedom.
One of my central suggestions in the following is that the idea of ethics without free will tends to be absurd because of our familiar, common-sense conceptual connection, which would make us think that the ethically right and wrong ways of life must be morally praised and condemned, respectively. This ethical truism, however, Spinoza intends to rebut. I will, therefore, propose to interpret Spinoza as a radical revisionist who attempts to criticize our ordinary form of thought. What he is doing in Ethics is, I argue, not just recommending a right way of life, but rather bringing about a reformation in our way of thinking about ethical rightness.

Honderich, Ted, 1993/2002. How Free Are You? 2nd ed. at 2002, Oxford: Oxford University Press.
Pereboom, Derk, 2001. Living without Free Will, Cambridge: Cambridge University Press.
Smilansky, Saul, 2000. Free Will and Illusion, Oxford: Oxford University Press
Waller, Bruce, 2011. Against Moral Responsibility, Cambridge, Massachusetts: The MIT Press.
Wegner, Daniel, 2002. The Illusion of Conscious Will, Cambridge, Massachusetts: The MIT Press.

International Workshop on Scientific Realism

講演者
Juha Saatsi(University of Leeds)
Timothy Lyons(Indiana University-Purdue University Indianapolis)
Teru Miyake(Nanyang Technological University)
Karen Yan(National Yang-Ming University)
Jonathon Hricko(National Yang-Ming University)
Minwoo Seo(University of Cambridge)
Rei Nouchi(Shinshu University)
Satoshi Kudo(University of Tokyo)
Tomoko Ishida(Keio University)
Yukinori Onishi(The Graduate University for Advanced Studies)

CAPEワークショップ「人と動物の倫理研究会 第2回研究会」

CAPEワークショップ宇宙倫理学研究会第5回例会「宇宙倫理学公開読書会その4」

CAPEワークショップ 性犯罪への眼差し――コントロール・非難・治療をめぐる理論と実践

CAPEワークショップ「人と動物の倫理研究会 第1回研究会」

CAPE Workshop: 3rd Kyoto-Chengchi-Singapore Graduate Conference

 

CAPE Workshop: Prof. Kristopher McDaniel Workshop

CAPE Workshop: Workshop of Moral Particularism

 倫理において定言命法や功利の原理など「道徳原理」と呼ばれるものが重要な役割を果たすと考えられている。たとえば、功利主義と義務論の争点の一つは「擁護可能な道徳原理は何か」というものである。生命倫理で知られるビーチャム&チルドレスの4つの原則も指導原理としての道徳原理(通常、原理と区別して「原則」と呼ぶが)として立てられたものであるし、ジョン・ロールズの反照的均衡(反省的均衡)はこうした原理と熟慮された判断とのあいだで均衡をとることで道徳理論は構築されるという考え方である。いずれにせよ、倫理学では「道徳原理が道徳において重要な役割を果たす」ということが徳倫理学などの一部を別にすれば前提になっている。
ところが近年、この前提を否定する立場である道徳的個別主義(Moral Particularism)が注目されている(道徳的個別主義に関するサーベイ論文として、蝶名林(2014-2015)とTsu (2015)が挙げられる)。たとえば、蝶名林(2014-2015)によれば、この立場によって次のような複数の主張が行われているという(1002頁)。

1.道徳的な特徴(moral feature, 悪さ、正しさ、粗暴さ、勇敢さ、など)とそれをもたらす他の特徴や条件の間の何らかの一般性を示すものとしての擁護可能な道徳原理は存在しない。
2.道徳語を理解し運用するにあたり道徳原理は必要ない。
3.道徳的判断は道徳原理を必要としない。
4.道徳的信念の正当化や道徳的知識の獲得に道徳原理は必要ない。
5.道徳的に適切な行為を行うのに道徳原理は信頼のおける指導原理ではない。

こういった道徳的個別主義の主張は、たとえ我々が道徳的個別主義を支持しなくとも、「道徳原理が果たす重要な役割とは何か」を問い直す機会を与えるだろう。
そこで、本ワークショップは、道徳的個別主義の検討を通して「道徳原理が果たす重要な役割とは何か」をあらためて問い直す。

参考文献
・蝶名林亮 [2014-2015] 「道徳的個別主義を巡る論争 -近年の動向-」、Contemporary and Applied Philosophy、第6巻、http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/issue/view/17
・Tsu, Peter Shiu-Hwa [2015] “Moral Particularism”, The Internet Encyclopedia of Philosophy, http://www.iep.utm.edu/morlpat/ (I use the date I accessed the IEP)

文責:杉本俊介
****
Shunsuke Sugimoto
(Senior Lecturer (Ethics), Faculty of Business Administration, Osaka
University of Economics, Japan)
Title: Particularist Reflective Equilibrium

Abstract: In my paper I examine whether moral particularism is compatible with the method of reflective equilibrium. Moral particularists claim that no moral principle plays any role in the justification of moral beliefs. Therefore, moral particularism is not compatible with the method of reflective equilibrium as a method of justification of moral beliefs where moral principle plays an important role. If the method is one “[m]ost contemporary moral theorists use”(Sinnott- Armstrong er al. [2010]) and “[v]ery many philosophers explicitly endorse”(DePaul [2006]), this incompatibility leads us to reject moral particularism (Tännsjö [1995]). Moral particularists might argue that we should reject the standard method of justification of moral beliefs(Dancy [1993] Bakhurst [2000]). The point is how moral principles work in the method of reflective equilibrium. However, most of the research on the method of reflective equilibrium have been focused on the roles played by considered judgement and moral intuition, but not moral principle. In my paper I examine Rawls’ and Daniels’ treatment of moral principles in the method of reflective equilibrium (Rawls [1971], Daniels [1979]). Then I propose an alternative component of reflective equilibrium, which plays the same role as moral principle, and show that moral particularists can accept the method of reflective equilibrium between the alternative component and considered judgment. My conclusion is that moral particularism is compatible with the method of reflective equilibrium.
(発表要旨邦訳)
タイトル「個別主義的な反照的均衡」
本稿では, 道徳的個別主義と反照的均衡法との両立可能性について検討する. 道徳的個別主義者は,道徳的信念の正当化において道徳原理は何の役割も果たさないと主張する. したがって, 道徳的個別主義は,道徳的信念の正当化の方法として道徳原理が重要な役割を果たす反照的均衡法と両立不可能である.もしこの方法が「現代のほとんどの倫理学者が使う」方法であり(Sinnott- Armstrong er al. [2010]),「相当な数の哲学者たちが明示的に支持する」方法(DePaul [2006])であるなら,この両立不可能性は我々が道徳的個別主義を拒否すべきだということを示すだろう(Tännsjö [1995]). 道徳的個別主義者なら,むしろこの標準的な方法を拒否すべきだと言うかもしれない(Dancy [1993] Bakhurst [2000]). ここで論点になるのは,反照的均衡法において道徳原理が果たす役割とは何かである. しかし, 先行研究の多くは,反照的均衡法における熟慮された判断やそこに含まれる道徳直観の役割しか注目しておらず, 道徳原理の役割には注目してこなかった. 本稿ではまず,ロールズやダニエルスが反照的均衡法において道徳原理をどのように位置付けたかを検討する(Rawls [1971], Daniels [1979]). そのうえで, 反照的均衡において道徳原理が果たす役割と同じ役割を果たすような、道徳原理の代替となる構成要素を提案し,それと熟慮された判断とのあいだでの反照的均衡をとる方法は個別主義者が採用できるものであることを示す. したがって,道徳的個別主義と反照的均衡法は両立可能であると結論づける.

Ryo Chonabayashi
(Part Time Lecturer, Faculty of Literature & the World Language
Center, Soka University, Japan)
Title: Particularist Moral Explanation: A Lesson from Naturalism?

Abstract: Particularists make many negative claims, such as that there are no defensible moral principles, that moral principles in fact mislead us about the moral status of each situation and by following them we may make many moral mistakes, and so on. In the literature, there have been relatively many debates on these negative claims made by particularists. But particularists also make some positive claims, such as that moral knowledge is possible without employing moral principles, that moral education is possible without referring to moral principles, and so on. In this paper, I shall consider one of those positive claims, namely the claim that we can provide moral explanations of particular moral facts without moral principles. One worry about this suggestion is that explanation in general supposed to provide us with some sort of informativeness, but such informativeness is usually provided by law-like generalizations or principles which are denied by particularists. A conclusion one can reach from this reasoning is that particularists cannot provide moral explanations which are informative in a plausible way. In this paper, I shall consider how particularists can respond to this worry. The line of response I shall consider is inspired by the recent naturalist reply Dowell and Sobel provides in response to the objection Parfit raises against non-analytic naturalism.
(発表要旨邦訳)
タイトル「個別主義的な道徳的説明:個別主義者は自然主義から学ぶことができるか?」
個別主義者は「擁護可能な道徳原理はない」「道徳原理に従うことで我々はむしろ道徳的な間違いをおかしてしまう」などの否定的な主張をする.このような個別主義者の否定的な主張はこれまでに様々に論じられてきたが,彼らは「道徳原理なしでも道徳的知識は可能である」「道徳原理なしでも適切な道徳教育を行うことができる」などの肯定的な主張も様々にしている.本稿ではそのような肯定的な主張1つである「道徳原理に訴えることなく個別的道徳的事実に道徳的説明を与えることができる」との個別主義者の道徳的説明に関する主張について検討する.この提案に対して,説明一般は一種の「情報性」(informativeness)を提供するものであり,原理に訴えない道徳的説明はそのような情報性を持たないため適切なものとは言えない,という反論が考えられる.本稿ではこのような反論に対して個別主義者がどのような応答を行うことができるのか,検討していく.特に,パーフィット(Parfit)の非分析的自然主義への反論に対してドゥエルとソベル(Dowell&Sobel)が試みている応答を参照して,個別主義者がどのような仕方で道徳的説明を擁護することができるか,検討していく.

Peter Shiu-Hwa Tsu
(Associate Professor, Department of Philosophy, Chung Cheng University, Taiwan)
Title: Shapelessness and Conceptual Incompetence: A Limited Defense of
Shapeless Moral Particularism

Abstract: On some interpretation, moral particularism is construed as a doctrine committed to a shapeless thesis: the moral is shapeless with the natural. (Call this version of moral particularism ‘shapeless moral particularism’). In more detail, what the shapeless thesis amounts to is this: the actions a moral concept can be correctly applied to have no natural commonality (or shape) amongst them. In favor of the shapeless thesis is a family resemblance view of moral concepts. Against the shapeless thesis, Jackson, Smith and Pettit(2000) contend that the family resemblance view does not provide adequate support. Moreover, they contend that the shapeless thesis will lead to an absurd consequence that no one can ever be competent with moral concepts. A reply on behalf of shapeless moral particularists has been made by Dancy. I will argue, however, that it is untenable. Instead, I will defend shapeless moral particularism by pressing a McDowellian response-dependent objection against Jackson et al. Although this will not prove shapeless moral particularism to be right, it will, at the very least, undercut the force of Jackson et al.’s attack on it, and, in this sense, provide a limited defense of it. At the end of this paper, I will strengthen my defense of shapeless moral particularism by arguing that Jackson et al.’s attempt to undermine family resemblance view’s support for the shapeless thesis is not successful.
(発表要旨邦訳)
タイトル「無形性と概念の行使能力:無形の道徳的個別主義に対する限定的な擁護 」
ある解釈では, 道徳的個別主義は無形テーゼ,すなわち道徳は自然と区別されて形作られていないというテーゼにコミットする教義として理解される(このバージョンの道徳的個別主義を「無形の道徳的個別主義」(shapeless moral particularism)と呼ぼう). 詳しく言えば, 無形テーゼは次のようになる. 道徳的概念が正しく適用されうる諸行為は,
それらのあいだで自然的〔性質における〕共通性(あるいは形)を一切もたない. この無形テーゼに反対して, Jackson, Smith and
Pettit (2000)では, 家族的類似性の見解は〔このテーゼに〕十分な支持を与えないことが論じられている. さらに, 彼らは,
無形テーゼは, 誰もが道徳的概念を行使する能力をもちえない, というばかげた帰結を導いてしまうと論じる. 〔そして,
〕無形の道徳的個別主義者を代表してダンシー(Dancy)が〔これに〕応答してきた. しかし, 私は, ダンシーの応答が維持できないと論じる.
その代わりに, ジャクソンらに対して反応依存性に訴えるマクダウェル的な反論を出して, 無形の道徳的個別主義を擁護したい. この擁護は,無形の道徳的個別主義が正しいことを証明するわけではないが, 少なくとも, それに対するジャクソンらによる批判の力を弱め,
その意味で無形の道徳的個別主義に対する限定的な擁護になるだろう. 本稿の終わりでは,家族的類似性に訴えた見解が無形テーゼを支持することを掘り崩そうとするジャクソンらの試みが成功しないとも論じることで,
無形の道徳的個別主義に対する私の擁護を強めたい。

*****

CAPEワークショップ宇宙倫理学研究会第3回例会「宇宙倫理学公開読書会その2」

下記の要領で宇宙倫理学研究会の第3回例会として「宇宙倫理学公開読書会その2」を下記の要領で開催します。事前登録等は不要ですので、どうぞご自由にご参加ください。

 

CAPE ワークショップ: A Workshop on Robot Ethics

来る11月27日(金)にモナシュ大学のロバート・スパロー先生をお招きし、下記の要領でセミナーを開催いたします。事前登録不要、参加費無料です。皆様のご参加をお待ちしております。

 

Part 2 (16:30-): Lecture by Prof. Robert Sparrow: Should we ban “killer robots”? Could we?
Abstract: In July this year, an “Open Letter from AI & Robotics Researchers” on the topic of “Autonomous Weapons”, signed by a number of very high profile engineers as well as thousands of other researchers, was presented at the International Joint Conference on Artificial Intelligence in Buenos Aries. In this presentation, I will briefly survey and assess a number of arguments that have been made as to why the development and use of autonomous weapon systems should be prohibited by an international convention. While I am somewhat sceptical about the particular arguments highlighted by the “Open Letter”, there are, I will argue, a number of good reasons for supporting such a ban. However, even if a ban on the development of these systems is desirable, it remains an open question whether it is possible. I will therefore also discuss the challenges involved in evaluating and regulating robotics research, much of which is “dual use”.
(This presentation will draw upon and develop arguments made here:
http://dx.doi.org/10.1109/MTS.2009.931862 and here:
http://dx.doi.org/10.1109/MTS.2012.2185275 )

16:20-17:00 講演3:Satoshi Kodama
Withdrawing life-sustaining treatments and the act-omission distinction
17:00-17:40 ディスカッション

CAPE Workshop on Philosophical Semantics

 

Title : Laying Sleeping Beauty to Rest
Abstract
Elga and others have argued that the so-called Sleeping Beauty Problem poses a challenge to Van Fraassen’s Reflection Principle. The argument rests on the assumption that conditionalization is the correct updating procedure to be used in the case: if one insists on conditionalization and the Reflection Principle, the consequence of that is less attractive than that of rejecting the Reflection Principle. I argue that general considerations of when conditionalization is appropriate show that conditionalization cannot be used in the case of Sleeping Beauty. Thus, the case does not pose a challenge to the Reflection Principle.

Title : Semantic Relationism and Relational Propositions
Abstract
In Semantic Relationism, Kit Fine proposes semantic relationism, the view that semantic relationship among linguistic expressions is not reducible to their intrinsic semantic features, and combines this view with referentialism, the view that intrinsic semantic features of linguistic expressions are exhausted by their referents. In this talk, I will point out some difficulties with his account, and explore a way to overcome them by taking a radical version of semantic relationism.

CAPEワークショップ宇宙倫理学研究会第1回例会「宇宙倫理学公開読書会」

宇宙学総合研究ユニットとCAPEが共同で設立した宇宙倫理学研究会の第1回例会を下記の要領で開催します。当サイトのプロジェクト【宇宙倫理】のページも併せてご覧ください。

※ 例会は公開にて行います。上記メンバー以外の方でも、専門分野や身分の区別に関わりなく、ご参加を歓迎します。研究者以外の方や学生の方も積極的にご参加ください。

CAPE Workshop: Workshop on Philosophy of Mathematics

 

Title : Mathematical Knowing-How
Abstract
In the recent literature on knowing-how, mathematical knowledge is always conceived as a kind of knowledge-that. In this talk, I challenge this assumption, and discuss the relation between knowing-how and knowing-that in mathematics. My aim is to suggest that the study of mathematical knowing-how could teach us something general on the relation between practical and theoretical knowledge.

Title : A naturalistic defense of indispensability arguments for mathematical realism
Abstract
It has been argued recently by Panza and Sereni that, for any clear notion of indispensability, either there are no conclusive argument for the thesis that mathematics is indispensable to science, or the notion of indispensability at hand does not support mathematical realism. In this presentation, I shall assess critically their argument and present a refined naturalistic defense of the indispensability argument for mathematical realism.

CAPE Workshop:Kyoto-Soochow Joint Workshop on “Virtue Epistemology : East & West”

 

Title : Reflective Knowledge: Knowledge Extended
Abstract
Palermos and Pritchard (2013) set out an account of extended knowledge.Crucial to the authors’ account of extended knowledge is the role played by cognition. The view that they endorse is one according to which cognitive ability is necessary for knowledge, where cognitive ability is understood as producing reliable belief forming processes and is part of or has been integrated into an agent’s cognitive character. The reliability component of the condition is an epistemic externalist condition regarding justification conducive to knowledge. Such a condition by itself faces counterexamples and ignores internalist intuitions. We consider but reject Pritchard’s epistemological disjunctivism as providing a model for avoiding this danger. After setting out an account of reflection informed by Confucianism and dual-process theory, we make the case that reflective knowledge offers a superior alternative. We do so by showing that such knowledge is necessary for extended knowledge, while drawing on Sosa’s account of meta-competence. The absence of such reflective knowledge playing the role that we outline forces one to concede that extended knowledge can only yield animal knowledge or, perhaps if one denies the category of animal knowledge, no knowledge at all.

Title : Zhuangzi on Skill and the Dao
Abstract
In my talk I shall give a report of some of the results I got in a paper of mine that was published several years ago*. In choosing to report these results, I mean to help to show that, if my results have any merit, doing research in Chinese philosophy in the spirit which the term “analytic Asian philosophy” may entail can be very useful. In the famous parable of Cook Ding (庖丁) in the Zhuangzi (《莊子》), Cook Ding himself links his wonderful skill of effortlessly dismembering an ox to the Dao (or the Way, 道), when, in response to the praise of his exceptional skill from Lord Wenhui, he says that “What I care about is the Way [the Dao], which goes beyond skill”. But what does skill get to do with the Dao? And in what sense does the Dao go beyond skill? The main purpose of my talk is to try to answer questions like these. For this purpose, I shall draw on fruitful discussions of the skill phenomena from both Gilbert Ryle and John Searle. Use will also be made of Aristotle’s conception of what we may call moral perception. With help from these various sources, the linkage in question and the way the Dao goes beyond skill can be shown to be making interesting and important sense. My discussion will also help to illuminate the notions of the Dao and wu-wei (effortless action, 無為).

*方萬全,〈莊子論技與道〉,《中國哲學與文化》,第六輯,香港中文大學劉笑敢主編(廣西師範大學出版社,二00九年),頁259-286。[Wan-Chuan Fang, “Zhuangzi on Skill and the Dao,” Chinese Philosophy and Culture, Vol. 6, ed., Xiao-Gan Liu (Chinese University of Hong Kong), (Guangxi, China: Guangxi Normal University Press, 2009), pp. 259-286.]

Title : Skilful Reflection as an Epistemic Virtue
Abstract
We argue that skilful reflection makes a positive contribution to the epistemic status of beliefs and agents. In doing so we defend and develop previous research in which we argued that skilful reflection is an epistemic virtue. This paper starts out by making the case that reflection occupies a place of significance in both the work of Ernest Sosa and Linda Zagzebski, two leading virtue epistemologists. Nonetheless, despite the significance of reflection for both theorists, problems emerge for their views if we understand reflection in a way that maybe quite intuitive. Drawing on a Confucius conception of the reflection of a virtuous agent, we set out an alternative account of reflection. On the account we provide, type 1 and type 2 processes, processes described in dual process theory, both play a role in reflection. We then show how this account of reflection avoids the problems previously mentioned and redeems the view of reflection, albeit skilful reflection, as making a contribution to the epistemic status of beliefs and our intellectual agency.

Title : On Intellectual Virtue, Moral Virtue, Knowledge and their Relationship: A View from Zhu Xi’s Philosophy
Abstract
In this essay, I try to advance a new approach to understanding the theory of investigation and knowledge in Zhu Xi’s philosophy. This approach is inspired by virtue epistemology which recently has emerged in Anglo-American philosophy. In my opinion, virtue epistemology includes three main elements: (1) the hard core, i.e. the concept of intellectual virtue; (2) a theory: defining “knowledge” and “justified belief” in terms of intellectual virtue; (3) an explanation for the relationship between intellectual virtue and moral virtue or other virtue. With respect to (2), even though Zhu Xi (朱熹, 1130-1200) himself did hold varieties of justified, rational, or warranted beliefs in his own cognitive practices, it is after all impossible that he had discussed the philosophical concept of justifiedness of a belief and formally offered a definition of “knowledge.” Therefore, this essay will focus on (1) and (3), interpret and reframe Zhu Xi’s theory of Investigation and Knowledge.

CAPE Workshop: Profs. G. Strawson & M. Montague on Philosophy of Mind

 

Title: The primacy of panpsychism
Abstract:
[1] Stoff ist Kraft (≈ being is energy).
[2] Wesen ist Werden (≈ being is becoming).
[3] Sein ist Sosein (≈ being is qual it(ativit)y.
[4] Ansichsein ist Fürsichsein (≈ being is mind).
[1]–[3] are plausible metaphysical principles and unprejudiced consideration of what we know about concrete reality obliges us to favor [4], i.e. panpsychism or panexperientialism,
above all other positive substantive proposals. This is not simply because panpsychism is the most ontologically parsimonious view, given that the existence of conscious experience is certain, and that panpsychism doesn’t posit the existence of any kind of stuff other than conscious experience. A question arises about why metaphysicians have posited the existence of so
mething for which there is zero evidence: non-experiential concrete reality. The question is the more pressing because physics with its numbers and equations is perfectly silent on the question of the intrinsic non-structural nature of reality.

Title: Consciousness and cognitive phenomenology
Abstract:
I am going to argue that a successful account of what makes an occurrent thought a conscious thought must appeal to phenomenological features. If this is right, a further question arises: which kind of phenomenological features? I will argue that sensory phenomenology cannot do the job, and that we cannot give an adequate account of what conscious thought is without app
ealing to what is now called ‘cognitive phenomenology’.

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回答者一覧

児玉 聡 ( 京都大学・文学研究科、倫理一般)
佐藤 恵子 ( 京都大学・医学部附属病院、生命倫理)
鈴木 美香 ( 京都大学・iPS 細胞研究所、研究倫理)
長尾 式子 ( 神戸大学・保健学研究科、看護倫理)

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