最近になって哲学に興味を持ちました、京都大学の文学部の2回生のものです。
よく電車の中で化粧をするのはよくないとか、人前で鼻をほじってはいけないだとか「人前で許されない行為」ということがいくつかあって気になってます。私個人としては化粧は特に気になりませんが、鼻をほじられるのは少しいやな気がしています。
さて、ではなぜ「人前で裸になるのはいけない」のでしょうか。一応これは上半身だけを考えています。私自身は別に女性の裸を見ていやな気はしませんし、女性だって男性アイドルの上半身を見ることだったらいやな気はしないでしょう。
以前読んだ本で、人前で裸になることがいけないのは性的羞恥心を見られる人見る人の間に喚起するからであると書いてありました。私は最初は納得しましたが、あとあと疑問を感じ始めたため、今回質問させてもらいました。
ちなみに、暴力事件に巻き込まれるなどリスクはあり得ますが、今回は、人前で裸になることのある種の道徳的な不快感とか非難の可能性を念頭に置いています。
さて、その本では、性的羞恥心は、肌を隠そうとしているのに、露見した時に最も喚起されるとありました。いわゆるチラリズムというやつですかね。
ということはみんなが裸になってしまう社会では、人前である一人が裸になったところで、隠すものという発想がないので、性的羞恥心は喚起されないということになると思いますがいかがでしょうか。
私がもやもやを感じるのはもしこの例で性的羞恥心が喚起されないならば、今の社会で裸になることがお互いの内に性的羞恥心を喚起し、それゆえに人前で裸になることが悪いことであるのだとしたら、たまたまそのような社会にいるということで、善し悪しが決まってしまっているような気がして、すごく違和感を感じます。
それとも、裸になるのがいけないのはそもそも別の理由によるのでしょうか。それとも人前で裸になるのは法律で禁じられているだけで、そもそもいけないことでもなんでもないのしょうか。
ご質問ありがとうございます。生命倫理とはあまり関係がないご質問ですが、お答えいたします。
ご質問の趣旨は、人前で裸になるのが悪いのは人々がそれに不快を感じるからだが、なぜそれを不快に感じるかは、人々が通常人前で裸にならないという慣習に依存しているからであり、みなが人前で裸になるのが普通の慣習であれば、それを不快に感じないから、悪くないことになるだろう、これは道徳的相対主義ではないか、ということかと思います。
たしかに、混浴の文化やヌーディストビーチなどの存在を考えると、人前で裸になることがどこでもつねに悪いというわけではないかと思います。人前で裸になることが良いか悪いかは、ある意味で、自動車の右側通行を自然と感じるか、左側通行を自然と感じるかと同様、規約(約束)の問題とも言えます。
しかし、左側通行を右側通行に変えることは不可能ではないし、国によって違ってもそこまで問題になりませんが、人前で裸になることについてはそこまでは「どちらでもよい」と考えにくいのは、もう少し理由があるように思います。
一つには、右側通行か左側通行かという場合には生じない羞恥心や情欲の存在があります。何に羞恥心や情欲を感じるかは文化や個人によって違うかもしれませんが、あることに羞恥心や情欲を感じること、またそういう反応が自然なことであると感じること(それ以外ありえないと感じること)は、かなり普遍的な現象のように思われることです。
人前で裸になることが、麺を食べるときに音を立てるか立てないかといったマナーの問題ではなく、道徳や法の問題となるのも、単に慣習に基づく不快感が生み出されるからというだけではなく、そうした羞恥心が多くの人にもたらす精神的な危害が問題になるからではないかと思います。
他にも理由があるように思いますが、あとは自分でも考えてもらえたらと思います。なお、ミルも自由論の第5章で少しだけこの問題に言及しており、拙著『功利と直観』でも第8章で少し触れています(200-201頁)。よければこのあたりから勉強を始めてみてください。