ジョン・ハリスは、死体から強制的に臓器を抽出し、臓器移植が必要な人々に提供するべきである、と主張していますが、これについてどのような批判があるのでしょうか?
権利(自己所有権とか生命権など)の帰属主体は死亡しており権利行使はできませんし、意識も感覚もないので選好を持つことも快苦を感
じることもありませんし、どのような批判が可能なのでしょうか。
超自然的な何かに訴えたり、遺族の権利及び選好や死亡者の生前の権利行使及び選好を考慮すべき、といった批判になるのですかね(見当違いだったらすみません…)。
ご質問ありがとうございます。以前私もハリスのこの主張に関心があり、調べてみたことがあります(下記URLからダウンロードできるPDFの
8-9頁あたり)。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/bioethics/organ_procurement_survey.pdf
そのときに出てきためぼしい批判としては、
(1)個人の自律や権利を無視している、
(2)死者はそもそも自律が尊重される存在ではないというような考え方に対しては、死者もインタレストを持っている、
(3)臓器提供は義務ではなく義務を超えた善行(supererogation)である、
(4)最後に、このような制度は政治的に実現が困難であり、また世論の大きな反発も予想される。
などでした。
死者がインタレスト(利益)を持つというのは論争的かとは思いますが、哲学的にはありうる議論だろうと思います。
その場合、利益は、選好や快苦とは切り離されたものになりますので、通常の発想では理解しにくく、
また、それは「死後の扱いについての生前の選好(死んだときにはこういう風に扱われたくない)」とは本当に違うものなのか、
と突っ込みがあるかと思います。
ただ、刑法の死体損壊等罪のことを考えると、死んでもある種の利益を持つという考えにも一定の支持があると考えられます。
また、ご指摘のように、現実的には、生前の反対意思や家族の意向を尊重しないことの帰結を考慮しないといけないと思います。
実際のところこのような制度を始めることは難しいでしょうから、臓器提供数を増やしたければまずきちんと啓発活動をしたり、
あるいはオプトアウトを目指すのがよさそうです。
何かありましたらまたご意見お聞かせください。