イヴァン・イリッチは『脱病院化社会』で、病苦の持つ「負の価値」に触れています。科学技術、とくに生命科学・医学は、病苦を取り去るべく努力を重ねてきましたが、生命科学・医学が目指している社会は、本当に人類が理想とする社会なんでしょうか。
痛みや苦しみのない社会では、哲学や宗教は生まれなさそうだし、イリッチは、そのような“麻酔された社会”では、人々は次第に強い刺激を求めるようになり、生きているという感覚を得るために、“薬物、暴力、恐怖”を求めるようになると言います。
同じようなことをルネ・デュボスも『健康という幻想』で言っていますね。
イヴァン・イリッチのいう「負の価値」という考えを単純に正当化していいものかどうか分かりませんが、生命倫理ではどう扱っていけばいいのでしょうか。
ご回答、ありがとうございます。
少しお尋ねしたいのですが、「生命科学の目的と、医学の目的は区別したほうがいい」とのご指摘ですが、どのような違いがあるのでしょうか。生命科学の方は純粋に科学であって、医学の方は実学に近いといったような違いのことでしょうか?
また苦痛の種類の区別をいろいろとご指摘いただきましたが、私が質問で挙げました「負の価値」というのは、森岡正博が『無痛文明論』で述べているものとも同じだと思います。
結局は、森岡正博もイヴァン・イリッチと同じことを指摘しているのだと思いますが、さまざまな技術によるさまざまな苦痛の除去、これはある意味で欲望の充足ですね。そのような技術の出現で「負の価値」を失うことの社会の損失に加えて、そのような新たな技術の出現は、結局は新たな問題を引き起こすという指摘もあります。
このような考え方を踏まえると、それは「社会をよくする方向に向かっている」とはいえないという結論も出せるのではないかと思うのですが、如何でしょう。
そういうことを総合的に判断した場合、生命倫理も「負の価値」に一定の価値を認めるということになって、そうなれば、ある技術を実際に適用することを禁止する根拠にもなるのかなと思った次第です。
示唆に富んだご回答、ありがとうございます。
長くなりそうですので、分けてコメントします。
【人々が素朴に願う「病気がなく、健康で長生きできる社会」と「生命科学・医学の目指す社会」の関係】
人々が素朴に願う理想の社会は、おっしゃるように「病気がなく、健康で長生きできる社会」が代表的なイメージなのだと思います。生命科学・医学は、あらゆる技術を駆使して人々の希望を実現しようとしてきました。あくまでもその希望は、「今、存在している人々の希望」ですけれど。
生真面目な生命科学・医学は、様々な病を克服しあたかも不老不死を最終目的とするかのごとく、研究に邁進しています。佐藤様が述べられているように、「医療技術が解決できるのはそのほんの一部」なのだとすれば、生命科学・医学の目標はよく分からなくなりますので、ここでは一旦上記のような目標とします。誰もが病気にならず不老不死を手に入れたとすると、つまり生命科学・医学が目的を達成したとすると、それは究極の幸福な社会なのでしょうか。佐藤様も触れておられますが、不老不死は幸福ではない。映画TIMEもそのような内容だったと思いますし、ルソーもエミールでそう言っていますね。つまり、「人は必ず死ぬ」は変えるべきではないのでしょう。ですので、生命科学・医学は不老不死を目指してはならないと社会が要請するものとします。「人は死ぬ義務がある」ということですね。となると、死に「善い死」と「悪い死」があるのではないかと考えられます(これは次のコメントへ回します)。
【「善い死」と「悪い死」】
死が二種類に分けられるのだとすると、人々は生命科学・医学に「悪い死」をなくすことを願うでしょう。人々が「悪い死」の定義を示さないかぎり(おそらく「善い死」とは老衰なんでしょう。そこで「老衰とは何か」という問題が出てきますが、今は触れません)、生命科学・医学は、自分たちが考える「悪い死」をなくすように研究に邁進していきます。つまり、「悪い死」の定義を生命科学・医学がすることになります。これは、生命科学・医学が「善い人生モデル」というものを想定し、それから外れる場合に介入していくのだという見方もできそうです。人生そのものが、人々の手から離れていっているようです。それはもはや人々が素朴に願う「病気がなく、健康で長生きできる社会」とはかけ離れたものになっているようにも思えます。イヴァン・イリッチや森岡正博が危惧しているのはこの点なのだと思うのですが、如何でしょうか。
【医療技術が解決できるのはそのほんの一部】
佐藤様がお示しのように、一般的にはそのような感覚で正しいのだと思います。ですが、当事者たちはそうではないのではないでしょうか。甲子園出場を目指さない高校野球部はないと思いますので、意識しているかしていないかはわかりませんが、自分の研究に関連した病いを克服することを突き詰めると、はるか彼方に不老不死があるはずです。しかし現実的に不老不死を目指していないのであれば、「人は必ず死ぬ」を受け入れることになります。そうであれば、先の「善い死」、「悪い死」の考えから、医学・医療(ここでは生命科学を除いてみます)の目的とは、「如何に人に善い死を迎えさせるか」ということになります。こう考えて宜しいでしょうか。
また別の視点から。医療技術が解決できるのはほんの一部だとしても、研究対象の分野は、どのように決まるのでしょう。純粋に研究者の好みでしょうか。それとも社会の要請でしょうか。20年くらい前までは、新しい抗生物質が続々と出てきていました。しかし今はかなりペースが落ちています。機序的に新しい抗生物質を生み出す余地が少なくなっていることや、また開発に膨大な資金がかかることなどから、製薬会社がこの分野の研究を渋っているように見えます。つまり、どの分野の研究が進むのかは、市場原理に委ねられているとも言えます。iPS周辺にもさまざまな営利企業が絡んできているようですし、「健康の鍵を市場原理が握っている社会」は、私たちが望んでいた社会なのだろうかと思うのですが、如何でしょうか。
【抗生物質】
佐藤様は、抗生物質の登場を善いことのように捉えておられますが、果たしてそうでしょうか。抗生物質の開発ペースが落ちているとともに、薬の効かない細菌はどんどん増えています。抗生物質の研究者であったルネ・デュボスは、細菌との競争に最終的には負けると悟り、研究から手を引きました。イヴァン・イリッチも『脱病院化社会』で抗生物質の登場のタイミングと結核による死亡率を検討していますが、死亡率低下の主要因は、栄養状態・衛生状態の改善だと分析しています。ポール・ファーマーも『権力の病理』で、貧困国で多剤耐性結核が蔓延していることを指摘しています。
抗生物質の出現は、本当に人類にとって善いことだったのでしょうか。後世の人々から恨まれることはないのか心配なのですが、どう思われますか?
【再び「負の価値」】
佐藤様もおっしゃっておられるように、そもそも痛みや苦しみはなくならないのかも知れません。死は不可避であり、生命科学・医学は死をほんの少し向こうへ押しやるだけだからです。
「人々が望んでいる社会」を功利主義的に考えると、「最大多数の最大幸福」あるいは「不幸の最小化」を目指した社会という見方もできるのではないでしょうか。果たして全体として痛みや苦しみは、減っているんでしょうか。生命科学・医学も、あるレベル以上、あるいはある分野では、功よりも害の方が多いかもしれないと疑ってかかる必要はないでしょうか。
バーナード・ショーは
「科学は一つの問題を解決するのに、いつも十の問題を新たに作りだす」
と言っています。
生命科学・医学も、あるものは目の前の問題を別の問題にすり替えているだけなのではないかという見方もできます。そう考えると、功利主義的に望ましい社会に向かっているのかどうか、疑問が出てきます。
宇沢弘文が、「自動車の社会的費用」を考察したように、あるレベル以上の、あるいはある分野の「医療の社会的費用」を考察してみる必要があるのではないでしょうか。宇沢弘文は、医療は社会資本として資本主義・競争原理の外におかなければならないと言っていますので、あくまでも「あるレベル以上の、ある分野の」という限定付きです。
私も「病苦には負の価値があるのだからそれを保護する」とは思っていません。病苦を取り除くための技術が、結局新たな苦しみを生むのであれば、目の前の病苦に「負の価値」を認めたほうが、功利主義的に幸福は大きくなる、そういう見方もできるのではないでしょうか。ただし、苦痛を取り除き尊厳を保つことは大前提です。
【「薬、暴力、恐怖」】
「薬、暴力、恐怖」に関しては、同じことをおっしゃっているのではないかと思うのですが。
質問にも書いていますように、「生きているという感覚を得るため」です。森岡正博が言うように、無痛であることは生きる意味を忘却してしまうのかも知れません。その苦しみから逃れるために、「薬、暴力、恐怖」を求めるのではないでしょうか。
危険な登山をなぜ人はするのか。健康・長寿が人生の目標ではなく、命を賭けてでもやりたいことがある方が幸せなのかもとも思います。人々が「病気がなく、健康で長生きできる社会」を望んだとしても、それは素朴な生活の基本というレベルの話だと思います。健康・長寿そのものの価値が重要であるかのように医学・医療が喧伝し、それに染まっていく人々が多くなれば、それは「医療の工業化」の弊害かもしれません。
命を賭けてでもやりたいことがある人生の方が充実しているようにも思います。
長々とコメントを連ねてしまいましたが、長年悶々と考え続けていることです。是非、専門家の方にご意見を伺いたいと思っております。よろしくお願い致します。
【「善い死」と「悪い死」】(再び)
佐藤様、コメントをありがとうございました。
いろいろと考えることが多く、お返事が遅くなりました。
不老不死が現実的ではないのであれば、佐藤様は「その人が持っている寿命をまっとうすること」が「善い死」だとお考えなのではないでしょうか。「きちんと生きることができるように」ということは、裏返せば「善い死」が迎えられるということでしょうし、「医療や医療者はその手助けができればよい」とお考えのように思えます。
そうであれは、私の考えと同じだと思われますが、如何でしょうか。
それとも、そもそも倫理や哲学の分野では、「善い死」、「悪い死」という分け方はしないんでしょうか?
【人類の激減の容認】
抗生剤の恩恵は確かにご指摘のようなものがあるとは思いますし、他の科学技術の発展について、同様の意見をお持ちの方も少なからずおられます。しかしその恩恵を受けられるのは、いわゆる先進国の人たちなのではないでしょうか。
詳細は、ポール・ファーマー『権力の病理』をご参照下さい。
佐藤様は、強力な耐性菌の出現で人類が激減することも歴史の流れとして受け入れなければならないとお考えですが、その歴史の流れを作った先進国の巻き添えを食って死んでいく途上国の人々に、この考えは受け入れられるのでしょうか?
そこには温暖化対策で見られる先進国と途上国の間にある対立と同じものを感じます。先進国は、これまでCO2を無制限に排出し豊かな生活を享受してきたのに、途上国にはそれをさせないのは許せないといった論点です。
この点に対して、佐藤様はどう反論されますでしょうか。私も心の奥ではこのような問題には目を向けないで過ごせたら(つまり、うまく反論できたら)どんなにいいだろうと思っていますので、よろしくお願いします。
【欲望の適切な抑制】
医療が善い死(これは同意いただけていない言葉ですが)を手助けするとは、具体的にどういうことでしょう。医療技術の発展は、それをますます困難にしている(自然な死を阻害している)ようにさえ思えます。佐藤様もご指摘のように、人々の欲望はますます肥大化していくからです。
果たしてその先に本当の幸福はあるのか、この点を今一度、深く考えてみる必要があるのではないでしょうか。
橳島次郎さんは、生命倫理に欲望を規制する一定の基準や条件を見つけ出す役割を求めています。まさに佐藤様が、人々の肥大化した欲望に「科学や医学の技術で応える必要はなく」とお考えであることに通じるように思います。
そういった抑制を、例えばフランスの生命倫理法のように、自律尊重に基づいた個人の権利よりも、社会秩序を維持するために「種の尊厳」が優先される場合があるといった原則を日本も打ち出す必要があるように思うのですが、如何でしょうか?
生や死の問題を個人の問題ではなく、社会の問題として捉える視点(医療資源の配分なども含める)が、日本人には希薄なのでしょうか?
【延命と患者の利益】
もし患者が、一秒でも長生きすることを望んでいたらどうなんでしょう。「患者の意思を叶えること」=「患者の利益」との主張があると思いますが、逆に「患者の意思を叶えること」≠「患者の利益」と主張するならば、どういう論理構成でできるのでしょうか。
ここは是非、ご教示いただきたい点です。
【「役に立つ」という視点】
研究者や医療者自身が、社会に対して「役に立つ」をアピールするのは問題だと思います。「役に立つ」には、どうしても主観的な価値観が入ります。ハイデガーのゲシュテルですね。今の社会は「有用」という尺度が過剰に認められているように感じます。その背後には資本主義があると思うのですが、資本主義の思想がわれわれ(患者、研究者、医療者すべて)の潜在意識に入りこみ、選好に強く影響を与えている。果たしてそれが善いのか悪いのか、人文学(哲学や倫理など)に判断、あるいは考える道筋・ポイントを示して欲しいです。
【「役に立つ」という視点の普遍性】
ついでに、「普遍的に役に立つといった表現はできるのか」を考えてみます。今、ある場所で特定の状況の人にとって役に立っているものでも、別の時代、別の場所、別の状況下では役に立たない、あるいは害を与えるということがあるのではないかということですが、普遍性を探っていくと、「人間の歴史の目的」とか「幸福の追求」といったことを考えるようになるかと思います。そして、この辺りを追求していくと、ニーチェにたどり着いてしまう。
そして多くの人々が、ニヒリズムの克服を目指しましたが、おそらく有効な処方箋は見つかっていないのではないでしょうか。ただ現実的な対処法の一つに、佐藤様がご指摘のように、「大きな希望や期待を持つのではなく、日々の生活を送ること」に注目することを勧めているものもあります。これらは患者側の立場ですが、医療側から何かするべきことがあるでしょうか。
もしかすると、お書きのように「医療の目的を踏まえた上で患者一人ひとりのゴールをきちんと設定し、納得してもらえるように説明する」が答えなのかもしれません。となると、「医療の目的」とは、「善い死を迎えさせること」(「善い死」という言葉の使用に同意いただいてはいませんが)で、「善い死」の定義は、医療側が主導権を握って決定しているように思えます。完全に患者の意思を無視するわけではないのでしょうが、そのように提案された「善い死」を患者が受け入れることこそ、幸福なのだといわんばかりですね。
【延命と患者の利益】にも関連していますが、それが悪いと言っているわけではありません。私もそれがいいのではと薄々感じているのですが(かなりパターナリスティックな医療とも取れますが)、このような方針決定作業を正当化するには、臨床倫理面での医療環境をどのように変えていくことが必要でしょうか?
【科学や医療の限界】
不確実性は分かりますが、限界というのはどうなんでしょう。佐藤様のまわりの研究者は、現実的に限界を意識して(あるいは限界を決めて)研究を進められておられるのでしょうか?
つまり、技術的な限界を感じておられるのか、それとも倫理的にこれから先へは踏み込んではいけないと自主規制されておられるのか、という点です。
具体的に申しますと、「がんは技術的に克服できない」とか、「脳移植は倫理的にしてはならない」とか、「老化の克服は研究対象としてはならない(これはどちらなんだろう?)」などですが、ここでの「限界」とはどのようなことをお示しなのでしょうか?
単に、「不老不死は目指さない」という意味での「限界」だとしても、それは技術的という視点なのか、倫理的な視点なのか、各研究者はどのようにお考えなのかを知りたいところです。
投稿を拝読いたしました。興味深いです。
ただ、拝見して、気になったのは、生命科学の目的と、医学の目的は区別されたほうがいいのかと。
それから、急性期のような医療機関の苦痛を考えたとき、医学が緩和しようとしている苦痛と、社会の中の痛みも区別するほうがよいかと。疾患から来る苦痛は、人間社会で直面する、感じる痛みや苦しみと異なるのではないでしょうか。
もちろん、疾患の苦痛を緩和しようとして発展・開発してきた除痛薬や手技は、時として悪用されますが。
ですから、その薬や手技で患者さんは、人として生活する人間社会の中で直面している苦痛を除くことができているのか。と問われたら、できていないのだと思います。ですから、臨床医療における痛みは負の価値というより、やはりできるだけ緩和のニーズのある痛みだと思います。
ここで、医療現場の次のような苦痛はどうでしょうか。
病気からくる苦痛でも、例えばその苦痛が生殖補助医療や、代理懐胎など出なければ苦痛を緩和できないとすれば、どうなのでしょうか。
先の事例は、少なくともがん性疼痛や、胸痛といった急性増悪の痛みや慢性的な身体的な痛みのことですけど。
後者の苦痛は、それ以外のものになります。この場合の痛み=負は、それがあることが正の価値を生むのも確かです。ただ、負の価値が常に正しいのか、善いのかということはやはり当事者の感情や認識によるような気がします。
とりとめもなく述べてしまいました。ずれていたらすみません。